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2009年12月21日

●2009年去りゆく人々 (浅利悟 篇)

浅利 悟選手 現役引退のお知らせ (FC東京公式)
 
 
今回はFC東京創設時からの背番号「7」、浅利悟選手について。
 
 
浅利は武南高校→明治大学を経て1997年に東京ガスフットボールクラブに入部。確か東ガスがプロ化する方向性を示したのがその年だったはずだから、「プロ化した東ガス」としてのFC東京の歴史は浅利とともにあると言ってもいいのかもしれない……という書き方はちょっと大げさかな。でも、その翌年の後半から東京に注目してきた僕にとっては、藤山と同じく「ずっといた選手」であり、今に至るまで「ずっと好きな選手」であったことは確かなのだ。

当時僕が浅利に注目したのは、そのプレーぶりがどうのこうのというより、単に同い年だったから(笑)。というか、そもそも僕がFC東京を応援するようになった理由としては「東京初のプロクラブだから」「青基調のユニフォーム色が気に入ったから」と並んで「同い年(1974年生まれ)の選手が多いから」というのもあったのである。浅利、小峯、加賀見、ペルー小池、岡元……中でも浅利は6月10日の誕生日まで一緒だったから、「おお!」という感じだった。

もちろん、プレーの方にも見るべきものがあった。よく動き、的確なポジションをとり、絡みつく守備と堅実なパスでチームのバランスを支える男。いわゆる好選手である。ただ、左サイドでブイブイ言わせる藤山と比べるといかにも地味ではあったし、サッカーを見る目のなかった(今だって別にあるわけじゃないが)僕は「いい選手だけど……1部ではどうだろう」と思っていたものだ。99年に東京はナビスコ杯4強・J2で2位の成績を残し、いよいよ浅利もJ1の舞台へ。

2000年。嬉しい誤算と言うべきか、浅利は小峯・サンドロらとともにアタッカーを封じ込めるバイタルエリアの「門番」としてJ1でも存分に活躍することになる。時折しつこさが仇となってPKにつながったような気もするが(笑)、その粘り強いマンマークが堅守速攻を武器とするチームの快進撃に貢献したのは間違いない。浅利のようなJ2の中で「普通に良い選手」が通用したことは、アマラオや由紀彦・藤山の活躍とは別の意味で大きな自信を与えてくれたのだ。

その後も浅利は監督交代や三浦文丈・今野らの加入などによってポジションを脅かされながらも、守備の抑え役として存在感を発揮し続けた。04年に大怪我による手術を受けてからの3年間は出場機会が激減、僕としても「今年こそ戦力外になってしまうのでは」と気が気でなかったのだが、しぶとく復活。08年には城福新監督の下で公式戦の全ての試合においてメンバー入りし、32試合に出場するなど藤山とともにベテランの力を大いに見せつけてくれた。

そして迎えた今シーズン。おそらくは米本拓司の加入が浅利の選手としてのキャリアに終止符を打つことになった。「浅利が目標」と公言する米本は高卒ルーキーながら先発ボランチに定着、ナビスコ杯ニューヒーロー賞を獲得するなど大活躍した。それに伴って浅利の出場機会はまたも激減。ナビスコ杯決勝の1週間前、ついに引退が発表されたのだった。その決勝後の表彰式、自身はメンバーを外れたにも関わらず、優勝カップを前に涙する浅利の姿があった。
 
 
繰り返しになるが、J2時代から今に至るまで、傑出しているようには見えない選手だった。でも、だからこそ、彼の活躍は嬉しかったし、彼がJ1のスター選手を相手にスライディングタックルを決めた瞬間の快感ときたら、もう!また、チームの成長とともに彼がレベルアップしていったのも確かな事実だろう。J1初年度は一対一のしつこさばかりが売り物だった選手が、いつの間にか指示を出しまくってチーム全体の守備を整える仕事までできるようになっていた。

なんつーか、個人的な「東京青春時代」を代表する選手だったんだな。僕にとっては。

今野や徳永、椋原らの成長が藤山の移籍をもたらしたように、浅利も形式的には梶山や米本の成長によって居場所を失ったということになる。ただ、当然ながら、それはFC東京というチームの世代交代が健全な形で進みつつあるということでもあり、ファンとしては寂しいけれども前向きに受け止めなければならないのだろう。浅利としても、これ以上はない「後継者」が現れて、最後にチームにタイトルももたらしてくれたのだから心残りはないのではないかな。

ただ一つ、残念と言えば、やはりJ1(とナビスコカップと天皇杯)において得点できなかった事だろうか。98年のJFL大宮戦では「超ウルトラストロングスーパーロングシュート」(by Mendoza)を決めて観客の度肝を抜いたらしいのだが……。まあ、逆に、「無得点にも関わらずJ1で10年やった男」というのも何だが凄いよな(笑)。でも、やっぱり1点くらいはとってほしかった。つーか、後継者の米本が1年目から弾丸ミドルシュートを決めたのには笑った。


あと、浅利といえば、今やいわゆる「社員選手」の代名詞になっているような感もある。2000年あたりだとチーム内にも他のJチームにもまだけっこういたんだけど、今季残っていたのは彼と、大宮の斉藤くらいか。そういや、以前、飲み会で「浅利は社員」云々という話で盛り上がっていた時、同席していたFC東京の某役員に突然「浅利はJリーグの統一契約書にサインしている立派なプロ選手だ!「社員」じゃないぞ!」とかたしなめられたことがあったような。

もちろん「社員選手」であるかどうかは定義の問題であって、そこは議論しても仕方がないような気もする。というより「社員」にしちゃった方が面白いし(笑)。ただ、その方が言いたかったのは「浅利は他の「プロ選手」と同じか、それ以上の心構えでサッカーに臨んでいるのだ」ということなんだろう。あえてそう強調したくなるくらい、中の人から見て素晴らしい努力をする選手だったんだろうね。だからこそこの年まで続けて来られたのだろう、と今にしてみれば思う。

とにかく本当に長い間お疲れ様でした。同世代として、これからも応援させていただきます。


[付記]
ちなみに、僕は応援歴の割にはチームのグッズを購入していない方だと思うし、個々の選手に関するものは3つしか買ったことがない。アマラオのTシャツと藤山のTシャツ、そして浅利のレプリカユニフォーム(2008年版)である。特に浅利のレプリカなんて、ホント清水の舞台から飛び降りる覚悟で買いましたよ(笑)。小平に行ってそのユニフォームにサインを入れてもらい、さらに握手しながらお礼を言ってきたのは先日のエントリーに書いたとおり。
 

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コメント

浅利のことは高校選手権で生で見ていたはずなんですが、残念ながら全く記憶に残っていません。
同じく同学年の僕としてはこの年のスターは帝京の松波、阿部であり国見の永井、三浦淳であり、武南なら得点王の江原でした。(あ、小学校から有名人だった伊東輝がいたか)

そんななか浅利がここまで現役を続けられたことは本当に嬉しいです。
なんだかアマラオの退団の時よりいろんな思いが頭をよぎる一年でした。
浅利のレプリカ買いそびれちゃったなあ

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