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2007年06月07日

●勝因と、『敗因と』 (後編)

前編から続く)
 
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では、なぜ日本は一つになれなかったのか、というのがこの本の主題である。ここは人によってはすっきりとしない部分だろう。金子さんは反トルシエ・ジーコ監督推進の立場だった人で、今回はその総括を期待した読者も多かったはず。が、結局ジーコへの批判は巧みに回避され、「原因は、一つではない」という言葉が登場する巻末部分はどうも不明瞭な印象だ。唯一示されるのは「ドイツ大会の日本には「目標」が欠けていた」という指摘のみ……。


だが、実はこの結論(?)はいいところを突いているのでは、と思う。昔から、代表における対立自体は珍しくない。アトランタの時も、岡田時代も、「トルシエジャパン」においても、選手同士、あるいは監督と選手の衝突はあった。だが、それが致命傷にならず大きな成果を挙げることができたのは、やはり「28年ぶりの五輪出場」「初のW杯出場」「開催国として義務付けられた決勝ラウンド進出」といった、皆が共有できる明確な目標があったからだろう。

ジーコ監督のチームもまた例外ではない。連覇を達成した04年のアジアカップ。あの「ジーコジャパン」は外から見る限り、非常に完成されたチームだった。観客から罵声を浴びつつ酷暑の連戦をこなす過酷な状況の中、「優勝」という二文字に向かってチームは一丸となり、選手たちは決して創造的ではないが勝つために必要な方法論を実践。半ば偶然にせよ、明確な「ミッションコンプリート」は選手たちにも僕らにも大きな達成感をもたらしてくれた。

ひるがえって、ドイツW杯の日本代表の「目標」は、一体何だったのか。1勝?決勝ラウンド進出?前回を上回る8強入り?未だにどうもはっきりしない。ジーコは「4強」と言っていたそうだが、少なくともそれが選手たちに共有されていた形跡はない。そして、そもそも「ジーコジャパン」の使命(ミッション)とは、一体なんだったのだろう。W杯での好成績?「黄金世代の集大成」?「日本サッカーの底上げ」?どうも、よくわからないのだ。

ミもフタもない結論だが、やはり人や集団にはある種の方向性が必要なのだ。それは「○○決勝進出」「勝点○」といった具体的な目標でもいいし、より抽象的なコンセプト(「小気味良いパスサッカー」とか)であっても誤解なく共有されれば機能する。もちろん、それらの実行のためには効果的な手だてが与えられなければならないし、方針が内側から生まれなければ外から与える必要があるだろう。おそらく、そういうことだと思うのだ。



こう考えた時、なでしこジャパンが素晴らしい戦いを続けている大きな理由の一つが見えてくる。男子ほどパブリシティに恵まれず、Lリーグ衰退という苦い経験を経た日本女子サッカーの代表は常に結果によって存在感を示す必要があり、世界大会出場に対して強い目的意識(使命感、と言ってもいい)を持っている。その、いわば「志」の結実が、観るものの胸を熱くさせる戦いぶりであり、意志や意図が固く統一されたあのパスサッカーなのだろう。

逆に、男子代表の方は今もまだ難しい状況なのかもしれない、と思うことがある。ジーコの後を受けたオシム監督は、前任者とは対照的に新戦力を積極的に起用、アクティブな戦術を浸透させ着々とチームの強化を図っている。アジアカップ予選は難なく突破し、先日はキリンカップの優勝も勝ち取って今のところは順調そのもの、アジアカップ本戦が楽しみといったところか。僕も「オシムジャパン」については非常にポジティヴに受け止めている。

ただ、オシムの下でチームは着実に強くなっているとしても、では目指す目標や理想がどこにあるのか、今はオシム以外誰も意識できていないのではないか。勝っているうちはまあいい。だが、これからW杯までに躓くこともアクシデントもあるだろう。その時、何をもって「オシムの代表」を評価するのか。選手やファンはどこに立ち戻ってもう一度立て直せばいいのか。オシムの頭の中に答えはあるとしても、それが見えないうちは僕は不安を拭えない。

ちなみに、以上の話は何も代表レベルに限ったことじゃない。今季のJリーグを見ても、戦力自体はともかくとして、持つ力を最大限発揮しているチーム、観る人の心を打つ試合ができているチームには明確な方針や目標を持っているところが多いように思える。川崎、柏、甲府、札幌……。個人的な嗜好なのかもしれないが、「目指すべき高み」を明らかにしてそこへ向かって努力する姿こそが僕は好きだし、それこそが成功への揺るぎない道なのだと思いたい。


……と、ここまで書いて、昨夏に僕が日本サッカー協会の川淵会長に対して不快感を覚え、例のデモにも参加した理由が頭の中でクリアになってきた。要するに、川淵会長の一連の振る舞い(「あ、オシムって言っちゃったね」)は、それまで「ジーコ」というカードによって会長自身が目指していたはずの理想をないがしろにしたように見えた、ということ。言い換えれば、志を自ら裏切って保身を優先させた、と。で、「みっともない!」と憤慨したのだな、今にして思えば。

目標を達成できなかったら直ちにチームの誰かがやめなきゃいけないとかいうものでもないし、試行錯誤しながら理想を探り続けていく道もあるとは思う。でも、繰り返しになるけど、「目指すべき高み」を追い求める努力だけはやめてはいけないし、ましてや自ら一旦掲げた目標や理想に対して誠意を失ってしまってはいけない。あくまで個人的な美意識も交えつつだが、僕としては、そう思うのである。
  
 
なんだか最後は変なところに話が飛んでしまった。まあ、話の筋がわけわからなくなったところで、ほんじゃまた(笑)。
 

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