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2006年05月21日

●戦争画@藤田嗣治展

昨日、国立近代美術館の「藤田嗣治展」で観た戦争画。暗いライティング、ダークグレーの壁紙、息を呑んで見入る鑑賞者。それ以前に並んでいる貴婦人や裸婦を描いた優美な「乳白色」の絵とのコントラストもあり、そのコーナーだけは異様な雰囲気になっていた。展示されていたのは『シンガポール最後の日』『アッツ島玉砕』『神兵の救出到る』『血戦ガダルカナル』『サイパン島同胞臣節を全うす』の5作品。

「戦争画」とは、太平洋戦争中に日本の著名画家が軍部に協力して描いた作品群で、ほとんどは戦後に様々な形で処分されたものの、153作品だけはGHQによる没収後「無期限貸与」として返還され、現在は近代美術館に収蔵されている。しかし、その経緯から「日本美術界最大のタブーの一つ」として半ば封印されており、展示される機会は少ないのだとか。戦争絡みでいかにもありそうな話だが、藤田の作品は戦争の勇ましさではなく陰惨さを強調している点で異色とのこと。

暗闇の中で、あるいは海岸で、日米の無数の兵士が味方の屍を踏み越えて銃剣で殺し合う『血戦ガダルカナル』及び『アッツ島玉砕』の陰惨さと迫力は凄まじい。人が大勢死ぬ映画が観客を喜ばせるように、これらを見て胸に浮かぶのはしおらしい反戦気分などではなく、何やらどす黒い興奮である。一見戦意高揚プロパガンダの文脈(勇ましさの強調と自軍の正当化!)からは外れているのだが、結局戦時中に発禁にならなかった(戦後発禁処分になった)のは、そういう事なんだろう。

ちなみに、『アッツ島玉砕』は「ガンダム展」で展示されていた会田誠『ザク(戦争画RETURNS番外編)』の元ネタだとか。うーむ、確かに、まさしく地獄絵図としか言いようのない凄惨さ、そして「殺し合うだけの存在」でしかない兵士たちの哀れさといったあたり、なるほどという感じ。

5枚の中で個人的に最も凄いと思ったのは、『サイパン島同胞臣節を全うす』。タイトル通り、サイパン島における「玉砕」を描いたもの。海沿いの丘に追い詰められた民間人の一団。ある者は短銃をくわえ、ある者が崖から身を投げ、ある者は静かに死を待つ…。悲惨な光景なのは間違いないが、雄大な構図と緻密な描写に目を奪われずにはいられない。注目すべきは、描かれている人物のほとんどがいわゆる民間人であり、かつその全員が悲壮な「決意の表情」を浮かべているところである。

この絵は、まさに、「戦争画」の姿を借りた宗教画(殉教画)なのだろう。この作品が描かれた1945年には既に敗戦の色が濃くなっており、「本土決戦」の名の下にサイパンや沖縄の地獄絵図が本土でも展開される事が予感され始めていたはずだ。来るべき受難。作家の本能として、それを先取りする形で、戦争という一種の「大義」のために死を迎える=殉教する、というモチーフを描かずにはいられなかったのだろう。なにしろ、藤田嗣治は後にカトリックに改宗し「レオナール・フジタ」と名を変えた人物なのだから。

結局、戦後の戦争画批判に嫌気が差し藤田は日本を離れることになる。展覧会において、「戦争画」に続く戦後のコーナーの多くを占めているのはキリスト教の宗教画であった。凄惨な殺し合いの絵から、崇高な香りの漂うキリストの降誕へ。これは極めて自然な流れであるように僕には思える。最後、出口の所には、彼の生涯の集大成であったノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂の中の様子が再現してあった。晩年は平安だったんだろうな、きっと。

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