●監督通訳はコーチの1人
先日、チェルシーの試合を録画で観ていて、ふと思い出したことがある。『オシムの言葉』の中に収録されている、オシム監督の通訳・間瀬秀一さんの言葉だ。
「 そこで、思ったんです。この仕事って、通訳じゃないなと。そこで、やり方、変えたわけですよ。 言ったことをやらせないと勝てないですから。極端に言うと、通訳としての指導力と言うんでしょうか。言葉を訳す力だけじゃなくて、どうすれば選手ができるようになるのか、そこら辺のやり方を考えました。」
「 今本当に、この監督の通訳をやって、自分がJリーグの監督になるっていう新しい目標ができたんですよ。 オシムさんはね、FIFAの技術委員なわけでしょ。そのFIFAの技術委員の右腕として、今、2年半やってるわけでしょ。FIFAの講習を2年半受けているようなものですよ、僕は。講習受けながら、一緒に力を合わせて実戦で戦っているわけだから。だから、そんな貴重な体験をしている僕が、将来監督としてタクト振るわなかったら、日本のサッカー界に対して申し訳がないと思うんですよ。絶対、日本のサッカー界に貢献する。絶対、自分が指導者としてサッカーをする。それは、やっぱり大事なことですよ。」
元選手ながらサッカー界にこだわらない将来ビジョンを持っていた間瀬さんに「絶対」「日本のサッカー界に貢献する」「自分が指導者としてサッカーをする」とまで言わせてしまう、オシムの監督としての魅力と凄みは大したものだと思った。そして同時に、サッカーチームにおける通訳という仕事の重大さをあらためて印象づけられた。
いかなる通訳あるいは翻訳であれ、「直訳」だけではその役目を果たした事にはならないものだが、サッカー監督の通訳のように言葉を発するだけでなく、実際に人(それも個性豊かな多数)に働きかけて動かさなければならない場合は、難しさもまたひとしおに違いない。日本語で自ら指示出してるのに選手を動かせない監督だってたくさんいるのにね(笑)。
サッカー監督の通訳は、無数のテクニカル・タームはもちろん、複雑な戦術と指示をきちんと理解し、元のトーンを損ねないよう選手に伝えなければならない。その作業は当然膨大なものとなり、効率よく的確にこなしていくためには監督の意図を先回りしたり、足りない場合は指示や表現を補う必要だってある。これはどう考えても素人には難しく、さらに言えばコーチングそのものの才能がないと無理だろう。
つまり、サッカー監督の通訳は、単なる「通訳」というよりも「アシスタント・コーチ」でなければならないということか。そう考えると、間瀬さんがJリーグ監督への道を選択するのは、一見突飛に見えながらも実は自然な発想であるように思えてくる。選手→「コーチ」(ないし解説者)→監督というルートだけが「監督への道」ではないのだ。チェルシーのモウリーニョだって、指導キャリアの第一歩はスポルディング・リスボンでのボビー・ロブソン監督の通訳だったわけだし。
まあ、日本で一番有名な(元)監督通訳フローラン・ダバディー氏は、サッカーに関しては「言いたいこと言いっぱなし」みたいになっちゃってますが(笑)。彼なんかは実際のところ、トルシエ時代どのくらい機能してたのだろう。
そしてもちろん、今度初めて外国人監督を迎えるFC東京のファンとしては、ガーロ監督の通訳体制がどのようになるのか、ちょっと気になるところでもある。飯野さんが監督分まで引き受けることになるのだろうか?
コメント
私もこのお正月に「オシムの言葉」(読んで良かった?)を読んで、間瀬通訳の章にはココロ惹かれるものがありました。で、やはりモウリーニョのことが思い浮かんで・・・彼の経歴の「通訳からコーチ・監督に」というプロセスがどうも実感できなくて、なのにやたら引っ掛かるんですね。でも、これを読んだら「ああ、こういう事だったのかぁ」と。まさに目からウロコ状態でしたw。今年の東京のベンチがとっても気になりますね。
Posted by: tenori | 2006年01月14日 05:54
おそらく、モウリーニョはボビー・ロブソンの通訳を務めながら、ロブソン流の人心掌握術・コミュニケーション手法を学んでいったのでしょうね。指向しているサッカーはかなり違うようですが、戦術やサッカースタイル云々以前に共通のものがあるのかもしれません。名将と呼ばれる人々は。
>今年の東京のベンチがとっても気になりますね。
いや、外国人監督は本当に初体験ですからね。どうなっちゃうんだろう。楽しみと心配が半分半分(笑)。
Posted by: murata | 2006年01月14日 19:41