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2014年12月11日

●柳沢敦が残した夢と記憶

柳沢敦選手 現役引退のお知らせ (ベガルタ仙台公式)
 
 
また1人、僕の好きなサッカー選手が引退してしまった。

新人の頃からバランスのとれた高い能力と独特の落ち着きを持っていて、スケールの大きさを感じさせるFWだった。決定力もあり、1996年のデビューから3年で5点、8点、22点(!)とゴールを積み重ねて順調にステップアップ。今年、FC東京の武藤のJ1新人得点記録(13点)が話題になったけれど、高卒3年目で22得点というのもなかなか凄い記録である。

代表の方でも、フランスW杯こそ涙の落選(膝を抱えて泣いてたな)だったものの、シドニー五輪代表では途中恋人との密会で宿舎を抜け出すおイタがありながら主力として活躍し、その後はA代表に定着して2002年日韓W杯では2アシストを決めるなど日本の決勝トーナメント進出に貢献した。日本のエースストライカーとしての未来は約束されているかに思えたのだが……。

「へなぎ」なる呼称が使われだしたのは、いつ頃からだったろうか。ゴール前でより良い選択肢を求め続け「点を取るだけがFWではない」と公言する彼のスタイルを好まないファンは多く、また2000年のアジアカップなど、あまりに消極的と思えるプレーが見受けられたのも事実である。ファンの求める理想のストライカーと、柳沢のこだわるFW像は次第に乖離して行った。

そしてドイツW杯。クロアチア戦で柳沢は最大のミスを犯してしまう。世に言う「QBK」である。当時僕は頑なに「日本のエースは柳沢」と主張していたので、加地の決定的なクロスを柳沢が外してしまった直後は友人達からの抗議のメールで携帯が鳴りっぱなしだった。つーか、僕に抗議しても仕方ないだろうと思ったのだが(笑)、悔しい場面だったのは確かだ。

いや、ホント、別にサッカーに限らない話(例えば恋愛なんかでも)だけど、巡ってきた決定機を逃すというのはそりゃ痛恨事には違いないんだよ。柳沢だってあのアルカイックスマイル的なポーカーフェイスの裏で忸怩たる思いをしたことだろう。ともあれ、この事件に加えてセリエAへの移籍が失敗だったこともあり当時は「柳沢終わったな」的な観測さえあったように思う。

彼が偉かったのは、そこから10年近く、粘り強く、相変わらず自分なりのプレースタイルにこだわって現役を続けたことである。イタリアから鹿島に復帰した後は京都、仙台と移籍し、どちらのチームでも(最後は出場時間を大幅に減らしながらも)ファンにとっては忘れられない足跡を残した。日本でプレーした17シーズンずっとJ1にとどまった。立派なもんだと思う。

まあ、初め頃の期待の大きさの割には、地味な現役生活だったのかもしれない。NHK-BSの中継で山本アナが「将来を嘱望される選手。ジーコのお墨付きをもらっている選手です!」なんて言ってたもんなあ。一貫して好きだったし、高く評価していた僕でさえ(いや評価が高かったからこそ、か)「シュート打てや!」ともどかしい思いをした事は再三だったもんなあ。

でも、そういう期待の(過剰なともいえる)大きさ自体、僕たちが彼に夢を見ている証拠でもあったんだよね、きっと。2002年W杯のロシア戦、何度も鋭く攻め込んで相手の脅威となり、ついに勝利をもたらすラストパスを決めたヤナギは格好良かった。あの試合、実況の倉敷アナが興奮の中で「柳沢が覚醒し始めているような気がします!」と話してたのが忘れられない。

Jリーグ通算で108得点、日本代表では17得点。それこそ彼のこだわった「得点以外の貢献」も考えれば、日本サッカー史に残るFWと言ってもいいのではなかろうか。いや本当に長い間楽しませてもらいました。お疲れ様。ありがとう!
 
 

何度見ても凄いシュートだなこれは……。
 
 
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