●『ゼロ・グラビティ』
今さらではあるが、アルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』を観た。昨年度、アカデミー賞で監督賞など7部門を制覇したSF超大作。
いや、これ、凄い傑作だったんだね。観てビックリした。
物語はいたってシンプル。地球軌道上のスペースシャトルがロシア衛星の残骸群の直撃を受けてクルーの大半が死亡、船外活動をしていたライアン(サンドラ・ブロック)とマット(ジョージ・クルーニー)は近くにいた国際宇宙ステーション(ISS)にたどり着くが、頼みのマットはライアンを助けるために自ら命綱を切って宇宙空間へ。1人残されたライアンは果たして生還できるのか……。
公開時にも話題になったリアルなCG特撮は確かに凄まじく、宇宙空間の過酷さと美しさ、低重力化でのおぼつかなさ、迫り来る無数の破片の恐怖などがいかんなく描かれている。ブルーレイ&家庭用テレビで観てもこの迫力なんだから、劇場の大画面で、しかも3Dなんかで観たら腰を抜かすか酔って吐いていたかもしれない。特に、一人で宇宙空間に投げ出される場面の恐ろしさよ。
だけど、そんなど迫力の宇宙描写も観ているうちに次第に慣れてくるし、ライアンがピンチに陥ってギリギリに危機を脱する様子も繰り返されると次第に飽きてくる。正直、途中までは「よくできてるけど、ちょっと単調といえば単調な映画かな」なんて思いながら観ていたのである。
この作品を単なる「リアルな宇宙映画」以上のものとしているのは、数少ない登場人物(実質ライアンとマットの2人だけ!)の人間くさいやり取りと、一つの印象的な場面だ。幼い娘を事故で亡くした過去をもつ生真面目なライアンと、かつてミッション中に妻に去られた陽気なマット。対照的な2人の、心のゆらぎが垣間見えるような交流が物語にしっかりとした芯を通している。
そして、決して忘れられない場面。ISSの中で宇宙船の燃料切れに絶望して死を覚悟したライアンのもとに、死んだはずのマットが突然窓の外から(「奇想天外な話でさ〜」などと軽口を叩きながら)現れる。マットはISSからの起死回生の脱出法を授け、さらには娘の死の呪縛から自由になれないライアンを諭し、彼の陽気で力強い言葉に勇気づけられたライアンは次第に生きる力を取り戻していく。
と、その瞬間、ライアンがマットの方を向くと、マットの姿は跡形もなく消えているのだ。
幻覚、夢、幽霊……観る人によって様々な解釈が可能だろう。いずれにせよ、宇宙空間における事故からの脱出劇においてリアルさをとことん追求したこの映画の中で、主人公が直面したある種の超常現象はきわだって印象的であり、このシーンによって登場人物2人への感情移入と、ライアンが数々の困難を乗り越えて地球に帰って行く成り行きの説得力がぐっと深まっているのだ。
皆さんは、夢の中で、懐かしい人、今はもう亡くなった家族や別れてしまった恋人などに会って楽しい時間を過ごしていた刹那に目が覚めてしまい、哀しい思いと、一方で、再び出会えたという満足感を覚えたことはないだろうか?ライアンとマットの再会シーンはそうした感覚を思い出させてくれるものであり、マットが消えた場面はまさに「夢から覚めた」瞬間であった。
夢から覚めたらどうする?そう、夢によって得た勇気を振り絞って、精一杯現実を生きるしかないのである。マットの消滅以降ライアンの表情に力強さが漲り、彼女は迷いなく地球への帰還を目指していく。炎に包まれる宇宙船の中でマットに天国の娘への伝言を託すシークエンスは実に感動的だった。映画を観ていて本当に久しぶりに、涙をポロッとこぼしてしまった。
思えばキュアロン監督は前作『トゥモロー・ワールド』でも夢のような一瞬、もしくは神が降りてきたかのような現実離れした時間を描いていた。終盤の地獄のような市街戦の最中、赤ん坊の泣き声で熾烈だった戦闘がふっと止まってあたりが静寂に包まれるあのシーン。おそらくこの監督は、単なる現実や日常の再現にとどまらない、映画というものの特長をよくよく理解しているのだろう。
『ゼロ・グラビティ』は、宇宙空間のリアルさを究極まで突き詰めたハードSFであると同時に、極限状態における人間の生の輝きを描いた人間ドラマの傑作である。
[追記]
しかし、この映画でもジョージ・クルーニー兄貴(結婚おめでとう)は格好いいことこの上ない。陽気で、無駄口ばっかり叩いてて、頼りになって、冷静で、優しくて、心の奥に傷を抱えているんだけどそれを隠してて、最後は女のために自らの身を犠牲にして去っていく……って、いつもそんな役ばっかりやってるような気がするんだけど(笑)。でも男の一つの理想ではあるよな。
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