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2011年08月11日

●民主主義の神髄 / 『十二人の怒れる男』

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先日、HDDレコーダーを整理したついでに、何年も前にWOWOWで録ったままになっていたシドニー・ルメット監督『十二人の怒れる男』を久しぶりに(大学生の頃以来か?)観てみた。

17歳少年が父親を殺した(とされる)事件の審理が終わった直後のニューヨークの法廷。証拠の状況から全陪審員一致での死刑評決は間違いないと思われた。だが、その決定に疑問を呈する陪審員がただ1人いた。「8番」と呼ばれる彼(ヘンリー・フォンダ)は他の陪審員の反発を受けながらも、固定観念を排して証拠を再検討することを熱心に提案するのだが……。
 
 
改めて観直してみると、本当によくできた映画だな、と。

まず第一に、登場人物の造形の豊かさが凄い。集まった陪審員は体育教師やセールスマンに建築士、会社経営者、工場労働者など職業や境遇がバラバラの12人(時代的に女性や黒人は入っていないが)。性格も頑迷だったり弱気だったり理知的だったり様々で、個性豊かな12人が時には罵り合い、時には意気に感じ、時には流されたりする様は実に見応えがある。12人という数も良かった。それより多いと個性の判別が難しくなり、少なすぎれば単調になったかもしれない。

もちろん、そんな個性豊かなキャラクターを演じきった役者たちや、それを生かし切る演出が素晴らしいのは言うまでもない。信念を持って戦い抜く熱血ヘンリー・フォンダもいいけど、僕が気に入ったのはE・G・マーシャル演じる冷静沈着な株式仲介人の4番陪審員。偏見や感情に基づくのではなく、公正な目で証拠を判断しようという彼は人間臭いドラマの中に絶妙のバランスをもたらす存在であり、かつ「無罪という扉」を開くための最大の鍵なのであった。

第二に挙げるべき要素は、密室の会話劇という地味な舞台設定にも関わらず見せ場満載のストーリー展開だろう。有罪という場の大勢に対して反旗を翻したの主人公も実は一発大逆転の事実なりアイデアを持っているわけではなく、初めはただ幾つかの証拠に引っかかりを感じている程度に過ぎない。大勢は動かしがたく、序盤に彼が「間違いの可能性もある!」と繰り返して反対する様は、観客にとってさえもまるで子供が駄々をこねる姿のように見えてしまう。

ところが、実際に熱意を持って丁寧に検証していくと、疑問の余地なく見えた証拠の1つ1つが実際には何らかのバイアスによって歪められている事が明らかになり、無罪に同調する陪審員が徐々に徐々に増えていくのだ。この切り崩しのプロセスに演出の巧みさが重なって、観ていてとてもワクワクさせられた。特に容疑者が叫んだ「殺すぞ!」という言葉の意味を皆が気づく場面は、思わず手を打ちたくなるほどの鮮やかさ。ここら辺は脚本家の腕に他ならないのだろう。

そう、陪審員たちが一気に意見を覆されるのではなく、「徐々に」翻意していくのがこの映画のキモなのだ。証拠を丹念に検証して事実を掘り返していくうち、実は陪審員の有罪・無罪の投票は単に証拠に基づいているだけではなく、彼ら個々人の事情や偏見に左右されている事が明らかになっていく。評決を行うたびに有罪・無罪の割合が変わっていくのはスリリングだし、最後に残った有罪派3人が「無罪」とつぶやくクライマックスはこの上なくドラマティックだ。

そして第三に挙げたいのが、作中に溢れる真摯なメッセージ性。90分以上に渡る激論の末、陪審員たちは無罪の評決を行う。被告の少年は死刑を免れた。だが、では真犯人は誰だったのだろう?それは誰にもわからない。一見正義は失われたように見えるが、しかし少なくとも証拠不十分の被疑者を電気椅子にかけるという不正義は回避されたわけだ。ここには刑事裁判に係る一つの真理があるし、制作者たちが強調したいのはまさにそこではなかったかと思う。

つまり、この世の中に「事実」は一つだが、人(々)がたどり着く「真実」は幾つもあり得る。そして唯一絶対の真実を求めるがゆえに、社会はある個人にいわれのない仕打ちを加えてしまう恐れがあるのだ、と。つまりは冤罪の構図である。その一方で、そうした不幸は人々の努力によって防ぐこともできる。人は1人では偏見や思い込みを避けられないけれども、集団で議論して知恵を集めれば何とかなることだってある。そんな思いが伝わってくる映画だった。

最後、どうにか真っ当な結論にたどりついた後、陪審員たちが変にウェットになったりベタベタしたりすることなく、サッと解散していくのも良かった(もちろんホロッとさせる演出もちょっとあるけど)。12人が集まったのはあくまでこの裁判に係る真実に至るため。だから、終わってしまえばまたそれぞれの所に帰っていく、ということ。ああ民主制の一つの型だなあ、と(笑)。
 
 
なんというか、異なる境遇、異なる思想、異なる動機の人々が集まって、様々な感情や意見を激しくぶつけ合いながらも最後まで場を壊さず(←これ重要)よりマシな「真実」に至っていく、という意味では、『十二人の怒れる男』はある意味民主主義の一つの神髄を示しているのではないか、と僕は思った。もしくは、現実の個人や集団の危うさや頼りなさを見せつつ、民主主義の原則の貴重さやそれに対する信頼感を表明した映画、と言ってもいいのかもしれない。

自分が昨今の日本政治の機能しなさっぷり(それは政治家や行政だけの問題ではない)に暗澹たる気分になっていたせいか、思いっきり僕の琴線に触れた映画だった。もちろんそうした視点を除いても、ほとんど文句のつけようのない大傑作であることは間違いない。お薦め。
 
 
[付記]

映画に関するエントリーはしばらく書いていなかったのだけど、久々に書いてみたら何だか論文みたいになってしもうた。まあ、元々そういうテイストと言われればそれまでだが……。
 

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