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2010年09月23日

●『北国の帝王』

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続いてロバート・アルドリッチ監督『北国の帝王』。確か先月にNHK−BSで放映されたものだっけか。大不況時代のアメリカ合衆国。無賃乗車で全米各地を移動する浮浪者「ホーボー」の中に”Aナンバーワン”と呼ばれる伝説の男(リー・マーヴィン)がいた。彼は、行きがかりから若いホーボー”シガレット”(キース・キャラダイン)と行動を共にするようになり、2人で鬼車掌シャック(アーネスト・ボーグナイン)の取り仕切る19号列車への無賃乗車に挑戦するのだが……。
 
 
全編に妙な「あつさ」が充満した映画だった。男たちの熱さと、そして暑苦しさ。

筋立て的にはベテラン&若者のホーボー2人組が「ただ乗り不可能」と言われる列車に無賃乗車して残酷な車掌と戦う、というもの。現代日本の僕たちにしてみれば不思議な設定ではある。普通に犯罪だろ、と(笑)。おまけに、当時のホーボーにしてみればそれも生活のためのテクだったのだろうが、しかしこの映画での無賃乗車はどこかへ移動する手段ですらないのだ。チャレンジとして目的化した無賃乗車。そこに感じるこの熱さと共感はいったい何なのだろう。

一つには、閉塞した社会状況の中で、無賃乗車というのがホーボーという社会的最下層に位置する者たちによるある種の反抗と見なすことができるからか。いつの時代でも犯罪というのはそういう意味づけや正当化をされがちなものだ。作品中、ホーボーたちがシャックや警官を決して上品とは言えない表現ではやしたてたりするのは、まさにそのような側面を表現しているわけだ。1930年代といえば、ボニーとクライドが銀行強盗を繰り返して英雄視された時期だしね。

もう一つは、やはり手段でないからこその「熱さ」なのだろう。Aナンバーワンにとってどれかの列車にただ乗りする事は朝飯前だし、あえて難関の19号列車に挑む必要など全くない。でも、だからこそ、彼にとってはプライドを賭ける価値があるのだという逆説。「山があるから登るのだ」というか、情熱は合理性を超えたところに宿るというか。誤解を承知で言ってしまうと、一見無駄に思えたり他者には価値のないものに存在意義を賭けてこそ人間、ということだ。

男と男の意地とプライドのぶつかり合い、死闘それ自体を楽しむ心、そして垣間見えるフェアプレイの精神と終わった後にもたらされるカタルシス。そう、ラスト近くのボーグナインの笑顔や叫びなんかを見ても、これは一つのスポーツなんだな、と。「チキチキ!大陸横断列車ただ乗りゲーム」とか書くとどこかのバラエティー番組みたいになっちゃうけどさ(笑)。

あとは、この映画、配役も素晴らしい。マーヴィンは顔に刻まれた皺といい無表情ぶりといいいかにも「百戦錬磨」という感じだし、ボーグナインもギョロ目むき出しで残虐な笑みを浮かべながらハンマーでホーボーをぶっ殺す「鬼車掌」役がはまりまくり。他のホーボーや鉄道作業員も皆「いい顔」をしていて……いやあ、ホントに暑苦しいこと!!そこまでの面構えを備えておらず、口だけは達者なキャラダインが「ゲーム」から放り出されるのも当然と言えよう。

まあ、この映画も『特攻大作戦』と同じく、途中までの丁寧さに比べるとクライマックスのくだりがせわくしなくなってるように感じられたりして、手放しでベタ褒めとは行かない。でも、雄大な大自然と情感溢れる音楽をバックに繰り広げられる戦いは単調だけど飽きることがなく、良くできた娯楽作品なのは間違いない。少なくとも日本じゃ作れない類の映画だよなあ。「無銭○○」という共通項なら押井守監督の『立喰師列伝』とかあるかもしれないけど……。
 

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