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2010年02月12日

●『ランボー 最後の戦場』

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今年の初め頃にWOWOWで録画しておいたシルヴェスター・スタローン監督『ランボー 最後の戦場』を観た。ご存じアクションヒーロー・シリーズの実に20年ぶりとなる新作。東南アジアの一角に身を潜める元グリーンベレーのランボー。ある日、彼は内戦と政府軍による弾圧が続くビルマへキリスト教系NGOの一団を送り届けるが、NGOはミャンマー政府軍により捕らえられてしまう。ランボーは5人の傭兵たちとともに彼らの救出に向かうのだが……。
 
 
ストーリーにせよ登場人物にせよ、とても「わかりやすい」映画だった。卑劣で残虐な悪の軍隊。善良だが無力な(そしてヒーローに救われる)平和主義者。訳ありの過去を背負い込んだ個性的な傭兵たち。ランボーが事態に巻き込まれるいきさつ、NGOや傭兵たちと最初対立しながら次第に心を通わせる過程、そしてラストの大戦闘。ありがちなパターンだらけの筋立てだけを見れば、80年代的な(右翼的な)アクション映画と何の違いもないようにさえ思える。

20年前と違うのは、戦闘の暴力性・残虐性というものがはるかに強調されていることだ。劇中の人体破壊描写は凄まじいの一言。撃たれて普通に体に穴が開き、倒れるどころの話ではない。狙撃銃バレットM82で撃たれれば頭部は完全に破砕し、地雷を踏めば赤い水風船のようにはじけ、M2銃機関銃の弾に当たれば紙粘土のように粉々になってちぎれ飛ぶ。それがこの映画における犠牲者の姿だ。最後、ランボーがミャンマー軍のボスを殺す場面も……。

本当の戦場における兵器の威力が実際にはどのようなものであるのか、僕は知らない。ただ、本作においてスタローン監督が描こうとしたのがヒーローの活躍によるありがちなカタルシスではなく「剥き出しの暴力性」であり、その表れの一つが「現代兵器の、人の手に余るほどの威力」であるのはおそらく間違いないだろう(もちろん、ミャンマー政府軍の非人道的なふるまいを強調しすぎと思えるくらいに強調しているのも同じ趣旨によるものだと思う)。

まあ、冷戦も終わり、9.11テロやアフガン戦争(皮肉なことに、相手は『ランボー3』でランボーが助太刀したムジャヒディンたちだ)、イラク戦争の泥沼などを経て、スタローンもさすがに色々と考えたんだろうね。その間には『プライベート・ライアン』なんかもあったことだし。

面白いのは、だからといってこの作品がカタルシスなき映画とはなっていないこと。カタルシスは確かにある。でもそれは悪者をジャンジャカぶっ殺すこと(だけ)によるものではなく、その後の、何百もの死体の山を眺めて途方に暮れるランボーの姿からもたらされているのではなかろうか、と僕は思った。なにも「悪いヤツをやっつけてメデタシ」だけが快感ではない。後に残った静かな空虚さが琴線に触れることは、いかにも映画的な味わい深い体験である。

元々『ランボー』は「国のために命をかけたにも関わらず報われないベトナム帰還兵が世間に対して叛乱を起こす」という暗い筋立てから始まったシリーズだった。メインテーマはあくまでランボーのトラウマであり、彼が戦争の意義を問いただしていく姿を描くのが主目的だったはずなのだ。それが80年代的なマッチョムードの中で次第に変容し、『怒りのアフガン』以後は残念なことにすっかり反ソ的マッチョヒーローとしてのイメージが定着してしまっていた。

そういう意味では、プロット的にはアクション映画のステレオタイプをなぞりながらも、戦争そのものの意味をきっちり(映像の力で)問い直している本作は、原点への回帰と言っていいのかもしれない。ラストシーン、ランボーが自分の過去と向き合おうとついに故郷へと帰っていく姿はなかなかに感動的であった。正直、事前に予想していたよりずっといい映画だったように思う。
 
 
……てか、これがヒットしたんで、スタローンが『ランボー5』作る気になってるらしいという噂を聞いたのだが、本当だろうか?そろそろやめておいた方が良いと思うのだが。『インディ・ジョーンズ』の最新作も(僕はかなり楽しめたけど)あまり評判が良くなかったみたいだし、だいたいスタローン御大の体型(今年でなんと64歳!)がさすがにちょっと……。
 

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