●『ウォッチメン』
先週、新宿ミラノ座でザック・スナイダー監督『ウォッチメン』を観た。アメリカがベトナム戦争で勝ってニクソンが4選を果たし、マスク・ヒーローの活動が法律によって禁止された「もうひとつの1985年」が舞台。ある日、ヒーロー集団「ウォッチメン」の元メンバー・コメディアンが何者かによって惨殺された。同じく元メンバーで1人非合法な自警活動を続けているロールシャッハはその死に疑問を感じ、他のメンバーたちを訪れながら真相を探っていくが……。
見終わった後、1人で酒でも飲みながら考え事に浸りたくなる。そういう映画だった。
まず素晴らしかったのは、完璧に構築された独自の世界(観)である。オープニングでは「三次元紙芝居」みたいな感じで第二次大戦後のアメリカの歴史と、その裏側におけるウォッチメン(とその前身ミニッツメン)の活躍や挫折が延々と描かれる。これが実に良くできていて、いつの間にやら僕たち観客はヒーローたちが実際に活躍していた「もうひとつの世界」を当然のものとして受け止めているのだ。冷静に考えれば、あのタイツ姿はそーとーにオカシイのに。
そして、全編に漂う終末感。この世界では冷戦は収束に向かうどころかますます先鋭化しており、「世界終末時計」はわずか3分前。ニクソンはアフガン紛争を巡ってソ連と対決する構えで、ウォッチメンの1人Dr.マンハッタンは米国政府から抑止力としての役割をあてがわれている。そんな中、ロールシャッハの捜査は様々な波紋を呼び、引退していたウォッチメンたちは否応なく「ヒーロー狩り」の脅威とともに、核戦争の恐怖とも向き合っていくことになる。
つまり、この物語は「人類が自ら破滅しようとしている時、ヒーローに出来ることは何か?」という思考実験であり、「ヒーローは世界を救えるのか?」という壮大な問いかけになっているのだ。「小状況」ではなく「大状況」に取り組む事の困難さ、と言い換えてもよいかもしれない。
悪漢たちを捕まえ、または抹殺し、もしくは困っている善き人々を助けるのがいわゆるヒーローの本来の仕事である。しかし、そうした単なる勧善懲悪とは次元の異なる大きな問題に遭遇した時、ヒーローは何ができるのか?それこそ「世界の悪の元締め」が引き起こした危機ならば、悩む必要はないだろう。だが困ったことに、この映画における核戦争の危機がそうであるように、世の中の大問題の多くは「誰かが悪い」事で起こっているわけではないのだ。
映画を観ながら頭に浮かんだのは、石ノ森章太郎の『仮面ライダー』と『サイボーグ009』だ。TV版ではいずれもヒーローものの定型通りとなっている両作品だが、原作では前者は「公害との戦い」、後者は「戦争(そのもの)との戦い」がテーマとなっており、いずれも主人公のヒーローは挫折を経験する。ライダーは公害病の少年たった1人を救うことができず、009たちはベトナム戦争に対して無力であった。そして、クライマックスで明かされる敵の正体は……。
『ウォッチメン』においても、『仮面ライダー』でも『サイボーグ009』でも、結局問題は根本的な解決には至らない。むしろ、悲観的なビジョンを提示したまま作品は終わる。ヒーローはある意味無力な存在なのだ。だが、たとえそうであろうとも、彼らは決して戦いをやめることはない。自分たちが戦っている相手が単なる「悪」ではなく、「世界」であり、「人間」そのものであったとしても。それが終わりのない、あるいは勝ち目のない戦いだと気づいていたとしても。
なぜか。それは、彼らはヒーローだから。見過ごすことなどできず、世界の中でたった1人孤立しようとも最後まで戦うのがヒーローの存在意義だから。そういう意味では、『ウォッチメン』の中で感動的なのは、引退して自信を喪失していたナイトオウルが再びコスチュームをまとって戦うことを決意し、「ヒーローとしての自分」(それは「本当の自分」でもある)を取り戻すシークエンスであり、また最後の最後まで妥協を拒否して戦い続けるロールシャッハの姿であった。
アメリカのコミック・ヒーローたちをパロディ的に扱う『ウォッチメン』は、一見斜に構えているようでいて、実はヒーロー神話を再構築する映画なのである。観ていて胸が熱くなったのは僕だけではあるまい。そして、そういう作品であるだけに、なおさらラストの物悲しさが際立つのだ。ロールシャッハとオジマンディアスは、いったいどちらがヒーローとして正しかったのか。1人残されたオジマンディアスを振り返るナイトオウルの表情が、脳裏に焼きついて離れない。
いや、ホントいい映画だった。『サイボーグ009』あたりも誰かまっとうに映画化してくれんかな、と思うのだが、少なくとも日本じゃ無理なんだろうな……。