●「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」
土曜の午後、『インディ・ジョーンズ』のついでに、森美術館「英国美術の現代史:ターナー賞の歩み展」を観た。ロンドンのテート・ブリテンで毎年開催されている、現代美術界で最も重要な賞の一つ「ターナー賞」。その歴代受賞者の作品を一堂に集めるという史上初の試み……っつーか、「いったいいくらかかったんだろうなこれ」「さすがに不動産で儲けてる大グループはやることが違う」と変な感心の仕方もしてしまう、これ以上はないくらい豪奢な展覧会。
入場してみると、お客さんの大半は「展望台と屋上のついでに、美術館もあるから寄ってくか」てな感じの観光客やカップルの模様。で、案の定というか、奇っ怪な模様の壺やらホルマリン漬けの牛やらぶら下げられた黒い布やら筋立てのないミニマルな映像やら、「いかにも現代美術」な作品を見て訝しげに首をひねる姿がそこかしこで見受けられたのだった。毎度の事ながら、この美術館の展示内容と客層のミスマッチは激しいものがある。
もっとも、割と現代美術好きな部類に入る僕も、この展覧会については「意外と面白い作品がないなあ」と思ってしまった。初期の受賞作はもう20年以上前のものだからそれこそ「コンテンポラリー」でなくなっている(鮮度が失われている)というのもあるかもしれないし、「単品作品」をひたすら並べるのでは展示の全体的な流れや整合性の面で問題が出てくるということかもしれない。とにかく、全体的には期待はずれ、と言うのが正直な感想である。
もちろん、良い作品もあった。
1つはダミアン・ハーストの『母と子、分断されて』。牛の親と子がそれぞれ真っ二つに縦割りされてホルマリン漬けになっている(計4つのケースが並ぶ)、という展示。おそらくは「母」と「子」が別のケースに入って「分断」されていて、さらに彼ら自身の肉体すらも「分断」されている、という姿を示すことで「分断」というコンセプトを鮮やかに提示した、ということなのだろう。その哀れな状況に見た目の残酷さや迫力もあいまって、えもいわれぬ気持ちになった。
……なんつって、実は僕らが深読みしすぎで、単にグロいものを美術館みたいな場所にドーンと提示して「ほら、芸術でござい」と見せつけて嫌がらせしてるだけだったりして(笑)。まあ、ハーストの作品に悪趣味の要素が入っているのは間違いないとは思うので、それはそれでマルセル・デュシャン的な凄さはあるけど。
もう1つはマーティン・グリードの『ライトが点いたり消えたり』。長方形の白壁の展示室で5秒間隔に照明がついたり消えたり、というだけのインスタレーション。説明書きを読まずに入ったので最初は戸惑ったのだが、「なるほど、「何もない」という展示なのだ」と気づいた時には吹き出してしまった。これもデュシャン的なコンセプトともとれるし、一方で「空間を感じる」なる行為を極めてわかりやすく提示した潔い作品であるようにも思えた。
ここで一つ疑問。ハーストの作品にしろグリードの作品にしろ、まさしく「現代美術」としか呼びようのないものだが、ここまで来ると「果たしてこれが美術と言えるのか?」と思う人も多いだろうし、先日こういう考えさせられるコラムも目にした。確かに、僕も美術であるからには、古典であろうとコンテンポラリーであろうと、「美」と「人為性」の要素は決して欠かせないと考える。でも、これらの作品がどうかといえば、やっぱり美術なんだろうな、と思う。
思うに、現代美術の、いや、そもそも美術の「美」とは、たとえば一面の雪景色を目にした時の「きれいだな~」的な(狭い意味での)美しさには限られないのだろう。視覚以外(聴覚や嗅覚、触覚)の快感や共感、高揚感、解放感。逆に不快感や哀しみ、沈静感でもいい。とにかくある種の意図をもって、何らかのショックで人の心を人為的に「揺さぶる」(”Moving”ね)こと。それこそが美術の本質なのではないか、と。最近そう思うようになっている。
まあ、ここで言っていることは「art」という言葉とその訳語の「美術」という言葉から受けるイメージとのズレの問題なのかもしれないけれども。「日本の美術界は欧米アートの知的側面に背を向けている」なんていう物言いもあるそうだが、問題の根は一緒なのかな。僕はちょっとだけ現代美術に関わる仕事をしていた時期、現代美術の定義や個人的な好みを聞かれたときには「ある種の一発ギャグ」「頓智が効いてるのがいい」てな答えをしていた(笑)。
で、ムリヤリ話を戻すと、森美術館に流れてくる「展望台&屋上目当ての客」とそこで展示されてる「現代アート」の相性を考えたら……やっぱりもう少し考えた方がいいのではないかと思うんだがなあ。そこが逆に面白い、と言われりゃそうかもしらんけど。