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2006年07月27日

●夏の小旅行記(広島編)

7月22日(土)

東京へ帰る日。親戚の車で新山口まで送ってもらい、9時26分発のぞみ12号に乗車。そのまま東京まで行っても良かったのだが、夕方の鹿島戦まではまだ時間があったので、広島で降りて観光することにする。考えてみれば、これまで東京-山口間をさんざん往復して広島でも何度も乗り継いでいるのに、駅から出たことはないのであった。


路面電車に乗って原爆ドームへ向かう。この電車は市街周辺ならば150円しかかからないし、本数も多いようでなかなか便利である。向かいの座席には、やはり原爆ドームへ向かうアメリカ人らしき親子3人連れの姿も。


原爆ドーム。予想していたよりずっと小さな建物であり、決して単なる「観光地」には回収されることのない雰囲気をたたえた場所だった。こんな、そこらの小学校よりもずっと小さい建物が爆心地からほど近いところでその形を残しているなんて、ちょっと信じがたいものがある。僕の横では、先ほどの米人親子の父親が、原爆の残虐性や放射能の問題について息子に丁寧に説明していた。


ドームの脇には大きな川が流れており、原爆投下後はおそらく死体で溢れかえっていたのだろう。今はとても穏やかな流れだ。ちなみに、ドームから道一つ隔てた区画には、「戦後広島市の象徴」広島カープの本拠地である広島市民球場がある。


平和記念公園。いい天気の週末ということで、多くの人が園内を歩いていた。水も緑もとてもきれい。中心部の慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」という言葉が彫ってあった。その前で車椅子の老人たちが手を合わせていたのだが、あの人たちも被爆者なのだろうか。


公園内にある「国立広島原爆死没者追悼祈念館」。最初は資料館の方と区別がついてなくて、地図を見ても「?」という感じだったのだが、4年前にできた新しい追悼施設らしい。地表部分には原爆投下時刻「8時15分」を表すモニュメントと被爆した瓦が配置され、薄暗いスロープを降りていった地下2階に追悼スペースが設けられている。


死没者追悼空間。45年末までの死没者数と同数(14万)のタイルを用いて、爆心地から見た被爆後の街並みが再現されている。部屋は静謐に保たれており、中心のモニュメントを流れる水の音だけが聞こえる。確かに被爆直後の爆心地はこんな感じだったのかもしれないな、とちょっと思った。日光の下、破壊のあまりの凄まじさに動くものはなく、音も消え、かすかに川の水だけが響いて……。


こちらは昔からある「広島平和記念資料館」。東館と西館に分かれている。


東館は広島の歴史、原爆の開発から投下、そして戦後の軍拡競争や反核運動までをカバーしていて、模型やパネル、映像資料が中心のスペース。上の写真は、その中で最も印象的だった中島地区(現在の平和記念公園周辺)の被爆前後を再現した模型。破壊の凄まじさがよくわかる。


西館は東館とかなり雰囲気が違っていて、まず最初にきのこ雲を撮影した組写真と大やけどをおった被爆者の大きな写真があって……続いて被爆直後の様子を再現したジオラマが。女性たちの顔は焼けただれ、腕からは剥けた皮膚が垂れ下がっている。これは正直、かなりキつかった。先ほどの追悼空間での感想などどこへやら、この状況は「静か」どころじゃないよね。地獄、か。


そこからは実物資料の連続。熱線でその持ち主もろとも焼き尽くされた三輪車、全身火傷で息絶えた女学生の写真、焼けた皮膚や爪、人が腰掛けていた部分が影となって残った石、爆風でぐにゃりと折れ曲がった鉄骨、白壁に残った黒い雨の跡、etc。東館では見られた観覧者の笑顔も、こちらでは全くなし。僕も気がつけば、背中じゅうに嫌な汗をかいていた。


超平凡な感想だが、やはり平和が一番だと思う。でも、60年前に原爆を落としたアメリカはつい最近もイラクで大規模な破壊と殺戮をやらかしており、我々の国日本はその犯罪行為に加担しているわけだ。ため息が出るよな。出口に飾ってある資料館を訪れた要人の写真の中に、ゴルバチョフやワイツゼッカーはいても、ブッシュの姿は当然のごとくないのであった。


なんとなくグレーな気分のまま広島駅へ戻る。新幹線ホーム下の売店でたこ天とエビスビール。たこ天は相変わらずシンプルだけど美味い(ビールに合う)。でも、500円はちょっと高いかな。13時発ののぞみ24号で東京へ。短い時間だけど、強い印象の残る広島滞在だった。

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コメント

おかえり。
オレは、長崎で同じような経験をした。残念ながら広島にはまだ。そのときは、村田さんの『嫌な汗』どころではなく、その場に居れなくなってしまった。情けないことに。

長崎には仕事で行った。街自体の下調べ(観光コース等)や原爆投下に関する資料を集め、豪華客船で長崎港に到着する御セレブ様を迎え観光スタート。眼鏡橋、出島の跡地、昼メシに長崎料理食って(角煮まんじゅう、激ウマ)
http://www.rakuten.co.jp/horai/347202/426301/
(オレにはどうしても元大関・若島津に見える)平和記念像がある平和記念公園くらいまではふつうに観光していた。

が、爆心地あたりから様子がおかしくなってきた。妙にコケた。まるで爆心地の下に誰かがいてオレにいたずらをしているが如く。一緒にいた旅行者はきっとそうに違いないと確信していた。ロシア人は迷信深い。原爆資料館でオレはなんともいえない気分になり、お客さんとガイドを残して出て行ってしまった。さっきまで『っゎ、にーく、うんめっ!』なんてガッついてたのがウソのよう。ホントは最後まで見たかった。グロいのはグロいですよ、そりゃ。ただそんな感覚だけで退出したわけじゃないんだよね。だとしたら、中国の731部隊の資料館なんて居れたもんじゃぁないっすゎ。

今でも説明はつかない、あの感覚。それと考えたのは、平和とか(かんっなりベタだけど)、世界の力の均衡とか、日本人のいろんな国に対する感覚とか・・・。仕事の途中なんでこの辺にしますが。

ども。
広島は学生時代に一人旅で行きました。人として一生に一度は行っとかなきゃ行けない場所だということを漠然と思った物で・・・
当時でも泣いてしまった覚えがあります。
悲惨な物は展示しちゃいかんとか言う人もいるけれど、事実は事実です。事実を後世に伝えてもらわないと困る。
しかし復興した広島は大きな街です。人間のパワーを逆に実感する場でもあります。
そのとき長崎にも行きました。怒りの広島、祈りの長崎ということばを思い出しながら回ったんですが、その後ご縁があってお盆の長崎にいったらイメージが崩れました・・・
せっかく日本に生まれ住んでいるわけだから広島長崎へはまた行きたいです。

僕は長崎には行ったことがないですけど、多分同じような感覚があるんじゃないかと思います。

なんというか、単なるビジュアル的な悲惨さだけじゃなくて、その手の事件があった場所というのは独特の「磁場」がありますから。海外では、アウシュヴィッツ収容所に行ったときも同様でした。

もしかしたら、そうした感覚は事前に僕らの頭の中にインプットされている情報がもたらしているのかもしれないですけど、それはそれで歴史のネガティブな重みということでしょう。

いわゆる「霊感が強い」人が行っても、大変なことになっちゃうんじゃないかなあ。日比谷高校の地下とかでも、そういう雰囲気はあったみいたいだし。

とにかく、色々と考えさせられるのは確かですわな。冗談抜きで、日本人皆が行ってみるべき場所なんじゃないかな、と思う。

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