●『極私的エロス・恋歌1974』
ビデオで、『極私的エロス・恋歌1974』観る。『ゆきゆきて、神軍』の前作にあたる、原一男監督の劇場用映画第2作。原監督が、自らの下を去った元同棲相手(武田美由紀さん。原監督との間に一子あり)を「彼女とのつながりを保つために」はるか沖縄まで追いかけた、まさに「極私的」ドキュメンタリー。
原監督の言うところの「アクションドキュメンタリー」の定義について詳しく知っているわけではないが、カメラの存在、あるいはカメラの「侵入」によって「あえて状況を起こす」という手法において、本作が『ゆきゆきて~』以上に先鋭的なのは間違いない。『ゆきゆきて~』も確かに強烈だけれど、あくまで主役は奥崎謙三という超強烈なパーソナリティであり、カメラはそれを煽り立てる副次的存在であった。
しかし、この作品においては、確かに被写体となる武田さんも、信念に従って沖縄で同性や黒人米兵相手に恋を重ねる強烈な個性の持ち主ではあるけれど、本来その存在自体が「事件」ではなかった(はず)。しかし、原監督は新しい生活を始めた武田さんの所へ半ば無理矢理押しかけ、撮影を通じた無遠慮な肉薄でその人間関係や生活を変容させ、あるいは破壊し、はてはその出産の模様をカメラで記録しさえするのである。
意図的に、カメラの力をもって「事件」を起こす。そこには客観や第三者などというものはなく、状況における複数の当事者の、触れあいや葛藤の様子が映されているだけだ。諍いの原因となりながらもさらに立ち入って行く事で、武田さんと恋人との共同生活を破壊してしまうカメラ。米兵への嫉妬に駆られて(?)カメラの前ですすり泣く原監督。マイクを持って武田さんと向き合う原監督の現在の恋人(プロデューサーの小林佐智子)。その時、武田さんは米兵の、小林さんは原監督の子供を身ごもっていた……。
表現とは、これほどまでに苛烈なものであり得るのか。エゴに満ちた視線に思わず圧倒されてしまう。ある意味、人としてのあり方について突き詰めきったとさえ言えるかもしれない。少なくとも僕にはこれはできないな。絶対に、できないだろう。
映画のクライマックスは、武田さんと、小林さんと、立て続けの出産シーン。息を飲む衝撃の映像である。2人ともアパートの1室での出産。赤ん坊の頭が出てきたのが見えて、でもなかなか顔が出てこなくて……。おまけに小林さんの時は赤ん坊がなかなか泣き声を上げず、「まさか死産なのでは」とギクリとさせられた。冷や汗が出たよ。その反動か、原監督の子供を取り上げた武田さんのやたら生き生きした表情と、生まれてきた子供たちが仲良く育てられているラストにはホッとしたけれども。
これは、「面白さ」云々のレベルを超越したインパクトをもたらす映画であり、「生きること」「人と人との関係」「生と性」「男らしさ、女らしさ」等々様々な事象について僕たちに問いを投げかけ、考えさせる映画である。好き嫌いはあるかもしれないが、一度観たら脳裏に焼き付いて離れないことは間違いないだろう。なんじゃこりゃ、という。