●「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部」
午後、写真美術館の1階ホールで開館10周年記念イベント「写真の歴史が教えるもの」。写真史家で写真美術館専門調査員の金子隆一さんと、デザイン評論家の柏木博さんとのトークライブ。最初やり取りにあまりまとまりがなくて聴いているこちらがハラハラしたけれど、後半持ち直して、最終的には歴史や表現に関する深いサゼッションに富んだ内容となった。
多岐にわたる話題の中で特に重要と思ったのは、「歴史というのは常に後の出来事によって書き換えられるもの」ということと、あと「歴史はクリエイティビティに資する、歴史を意識する事により深い表現が生まれる」ということ。前者については、例えば70年代の荒木・森山的な表現というのは今振り返ればプリクラ・ケータイカメラのような「撮るという行為への端的な欲望の復活」の系譜上にあったのではないか、とか、要は見方・位置づけというのはフィックスしちゃだめよ、ということ。後者の方は、例えばオマージュみたいな、「ベースの上にオリジナリティを築くことによる表現の深化」ということ(これは著作権と表現の問題にも通ずるな)。いずれの問題も、言われてみれば表現者として意識して当然の事、とは思うのだけれど、つい忘れがち(あるいは軽視しがち)なんだよね。
終了後、こないだ地震でゆっくり見られなかった「写真はものの見方をどのように変えてきたか 第3部「再生」」をゆっくりと。今回は前2部のように写真表現の傾向と趨勢を追うのではなく、第2次世界大戦前後に活躍した日本の写真家たちの生き様に焦点を当てたものになっている。「戦争」という重い状況が背景にあるだけに、写真そのものよりも、むしろフレーム内の被写体の有り様について色々と思いをはせてしまう雰囲気。
トークライブにおいて、「「写真はものの見方をどのように変えてきたか」というのは、写真という表現の変遷によって、それを見る人々の感じ方や考え方がいかに変わったか、という意味だと思っていたが、今回は趣旨が違うのでは」と質問が出ていた。それに対する金子さんの答えは「確かに写真の移り変わりはそれを見る人の移り変わりである、という観点も含む展覧会なんだけど、撮る側のものの見方、あるいは作品に内包される視線の変化、という部分にスポットライトを当てることもまた大事だと考えた」というもの。なるほどね。カメラは自動的に、あるものを記録するというだけの機械ではなく、あくまで人が何かを(選択して)意識的に撮る道具である、ということか。
特に印象に残った作品としては、やっぱり濱谷浩さんの『敗戦の日の太陽、高田』(濱谷浩)だろうか。これは凄い作品だ。外見的には、1945年8月15日に空高く照りつけいた太陽を撮影したというただそれだけのもの。でも、少なくとも僕たち日本人にとっては重い重い、その背景にとてつもなく多くのものを感じ取ることのできる写真である。そうした感じ方・感覚自体が、今日のトークライブの内容にも展覧会のテーマにも通じる現象ではあるのだろう。あと他に良かったのは、『終戦の詔勅放送に泣く女子挺身隊員』『東京雪景』(大束元)『コッペパンをかじる』(熊谷元一)『ヌード』(中村立行)『「チューインガムとチョコレート」より 岩国』(東松照明)といったあたりかな。