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2005年06月29日

●『コモンズ』

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ローレンス・レッシグ著、山形浩生訳『コモンズ』(翔泳社)。買ってから実に2年くらい置きっぱなしにしていた本だが、ついに手をつけて読了。人間の創造性の発揮における自由な領域(「コモンズ」)の大切さ、特にインターネットにおけるコモンズの確保の重要性について、様々なフェイズや理論・事例を取り上げて説いた本。すげえ力作で、400頁以上のボリュームだが、2年かけて(笑)読むだけの価値はあった。

本の内容についてはかなり色々なものが詰まってはいるけれど、巻末に付いてる訳者あとがきがすごく良くまとめているので、本全体を読み通すのが大変ならばまずそれに目を通してもいいと思う(極端な話、あとがきだけでも読む価値があるかも(笑))。山形さん、かみ砕いてレッシグや彼の主張を紹介するにとどまらず、日本への適用可能性や読者にとっての意義等へ膨らましてくれてるんだもの。素晴らしい訳者ですな。マジで。

それはともかくとして、驚くべきは、この本が3年以上前に書かれた本だということだ。実に先見の明があったのだね、レッシグは。彼の提起した問題に関わる事柄(インターネット等の規制)の重要性は、米国のみならずこの日本においても次第に社会に認知され、大きな問題として扱われるようになった。でも、世の中は、この分野について、レッシグの危惧したように、そしてレッシグの主張とは逆に、よりコモンズを狭くする方向においてのみ強い関心を抱いているように思える。特にいわゆる「コンテンツ」についてはひどい状況だ。訳のわからない法や規制が量産され、我々はポルノとも海賊版とも異なる、「際どい表現」や「過去の遺産の切り貼り」さえも躊躇する有様である。

窮屈な世の中で、それでも想像力を発揮できる、あるいは発揮しようとする人間は確かに存在する。でも、そうでない人間だっているし、そういう人間は「締めつけ」によって確実に切り捨てられる。それはつまり、社会全体の創造性の一部を切り捨てているということだ。常に規制とは「~のために」という理由で作られるものだが、そういう規制が本当に役に立っているという証拠(あるいは確信を得られるだけの材料)も、そういう規制を裏付ける論理的で説得力ある説明も、ほとんど見たことがないように思うのだが、気のせいか?そういった規制は誰かのポーズ、あるいはアリバイ作りでしかないのではないか?そして多くの人はそういった振る舞いを助長してしまっているのではないか?

レッシグの主張は、何もインターネット上の創造性や自由のみについて当てはまるのではない。彼の理論の射程は社会一般までをとらえているものだ。彼が主張する自由は(特定の誰かのではなく)僕たちの自由であり、彼が重要性を強調するコモンズは、僕たちにとって大事なコモンズでもある。規制は必要だ。でも、それはあくまで人々の生活を豊かにするためのものであるべきで、誰か特定少数のためのものであってはならないはずだ。当たり前の事を正面から説いてくれる本。人にも勧めたいと思うし、次の『Free Culture』も早く読まないといけないな(とか言いつつ、また読むのに2年くらいかかったりして(笑)。)

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