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2015年01月22日

●『ピノキオ』

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年が明けてからも子供と一緒にポツポツとディズニー映画は観ていて……第8弾として『ピノキオ』を観てみた。


貧乏コオロギのジミニー・クリケット(声はサイボーグ007)が名曲『星に願いを』を歌うオープニングがあまりに有名な映画だけど、僕はてっきりピノキオが「人間になりたい」と願う話だからこの主題歌だと思い込んでたのである。でも、実際は、子供のいない善良な人形職人のゼペット爺さんが「この人形が自分の子供であってほしい」と願いをかける話だったんだね。

で、そんな爺さんの願いを受けてブルー・フェアリーの起こす奇跡でピノキオは生命を得るわけだが、ピノキオが出会うのは狐の詐欺師(声はルパン三世(笑))に粗暴な人形遣いに奴隷商人に凶暴なクジラ、etc。外の世界は厳しくなかなか辛い場面が続く。巨悪はおらず小悪党ばかり、しかもそいつらが懲らしめられることがない、というのはけっこうビターな物語ではあった。

つーか、そもそもピノキオ自体、可愛い造形と声にはなっているけど、すぐ煽てられて調子に乗って騙されるし嘘をつく(そして鼻が伸びちゃう)し、ぜ〜んぜんいい子じゃないんだこれが。ピノキオが悪い仲間(超クソガキ)と一緒にビール飲んで葉巻吸いながらロバにされかけちゃうシーンなんて「はたしてこれを子供に見せて良いのだろうか」と本気で悩んでしまった(笑)。


「遊んでばかりの子供はロバになる」

それでも名作は名作。感動させられてしまう場面は確かにあって、冒頭の『星に願いを』もそうだけど、僕が特にジーンときたのは、大クジラの体内に飲み込まれてしまったゼペット爺さんとフィガロ(猫)とクレオ(金魚)のところにたまたまピノキオが辿り着いて、どう考えても絶望的な状況なのに爺さんが「家族が揃った!揃った!」と大喜びするところね。

冒頭の願いをかける場面といい、この場面といい、ゼペット爺さんの切実さと歓喜が泣けるというか、やっぱり僕が個人的に感情移入したのはピノキオ本人よりもピノキオの善良な家族や仲間達(ゼペット、フィガロ、クレオ、ジミニー)だったんだよな。まあそんなピノキオも最後は自分の身を犠牲にしてゼペットを救う行為を認められてブルー・フェアリーに人間にしてもらうわけだが……。


「いい子になったら人間にしてあげる」ってのは、こうして見るとやっぱりちょっと皮肉な設定だね。だって既に書いた通り、この映画に出てくる人間(人語を話す存在)ってゼペットとクリケットを除けば悪いやつばっかりなんだもの。だから悪い子時代のピノキオを見ても「そのまま人間じゃん」とか思ってしまう。

ピノキオ的な「人間か人形か」問題を取り扱った作品はたくさんあって、ぱっと思いつくのは『鉄腕アトム』と『人造人間キカイダー』だけど(手塚石ノ森脳)、前者は普通のロボットと異なる(つまり人間と対等な)存在としてアトムの自己犠牲的な部分を強調しているのに対し、後者は人形時代のピノキオのような嘘や不正義も含むグレーな部分を人間らしさと見てるっぽいんだよね。

あとはフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』か。あれは人間と人形(アンドロイド)には厳然と一線を画する何かが確かにあるんだけど、それは考えれば考えるほどよくわからない、という話だったような。

まあ、おそらく、筋立てそのものとは別に、ゼペット爺さんやジミニーの善良さも、詐欺師や奴隷商人の悪辣さも、ロバにされる子供達の怠けぶりも、そしてピノキオの可愛さと駄目さも、全部ひっくるめて「人間」が描かれているということなんだろう。だからこそブルー・フェアリーは、特に優れているわけでもなんでもないピノキオを人間にしてくれたのではないかな、と。僕はそう思った。

まあ、そんなところまで考えて観なくてもいいんだろうけど(笑)。


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