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2005年12月08日

●『スターウォーズ エピソード3』

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DVDで、ジョージ・ルーカス監督『スターウォーズ エピソード3/シスの復讐』を観た。旧3部作を合計50回以上観ておりスターウォーズ・ファンの端くれくらいには位置する僕だが、しかしこれについてはなかなか劇場に足を運ぶ気が起こらず、ついに見逃してしまっていたのである。暗い話になるのはわかっていたし、しかもなまじっか『エピソード2』が盛り上がっただけに「ホントにルーカスにうまく収拾できるのかよ」という不安が勝っていたのだ。でも、実際に観てみると、何とか収まるところには収まった様子。ホッとした。

正直なところ、映画としての出来を問われると、「うーん」と首を捻ってしまう作品ではある。全体的に間延びしたテンポで、要所における演出もちょっと軽すぎ。脚本的にも旧3部作との整合性がとれていない部分がある(R2-D2やC-3POの扱いとか)。特に気になるのが、新3部作全体で最も重要なシーンのはずの「アナキンの転向」がいささか強引すぎるところかな。いくら鬱積や誘導があったにせよ、あそこまで一気に堕ちちゃいかんだろう、みたいな。

ただ、それらの欠点を差し引いたとしても、この作品には大きな意義があると僕には思えた。それは、「ジェダイ狩り」からダース・ベイダー誕生までの残酷な展開がきちっと描かれたから。ルーカスもさすがにここは妥協しなかったねえ。ジェダイたちが次々と惨めな死を遂げ、一方ダークサイドに堕ちた者も大きな不幸に襲われてしまう。アナキンが子供たちを手にかけるシーンには、さすがに愕然とさせられたぞ。そしてクライマックス、ついにアナキンとオビ=ワンは一騎打ちに至り、これまたむごい結末を迎えるのである。こういった哀しさや陰惨さは旧3部作にないもので、このシークエンスがあってこそのプリクエル3部作。作ってよかった、というものであろう。

また、誰が何と言おうと素晴らしかったのが、惑星タトウィーンにおけるラストシーン。旧3部作につなげるための諸シーン(デス・スターはちょっと早くね?)の中、あの「2つの夕陽が落ちていくのをオーウェンおじさん・ベルおばさんに抱かれたルークが眺めている」シーンで映画を終えたのは、まさしく最高の選択だと思う。青年ルークが夕陽を眺めるシーンは『新たなる希望(エピソード4)』の中でも最も印象的かつ抒情的な場面だから。あのラストに「…それから18年後。」とかいうテロップを付けたら、そのまま『新たなる希望』につながるんじゃないかと思うくらい。ファンにとっては落涙ものである。

まあ、何にせよ、僕の場合はどうしてもすんばらしい旧3部作と照らし合わせて観てしまうので、普通の人と良し悪しを感じるポイントが異なるのかもしれない。『スターウォーズ』自体を初めて観る人には筋書がつかめないだろうし、スカッとした娯楽作を求める人は終盤のアナキンの有様を見て引いちゃうだろう、あの「焼きだるま」には。まあ、そこら辺はしょうがないっちゃしょうがないよね。そもそもプリクエルなんて無理のあるものだし、これ、よく考えたらジョージ・ルーカスの自主制作映画みたいなものだから(笑)。

とにかく、何とか終わって良かった良かった、というところか。旧3部作もまた見直してみようかしら。

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