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2005年12月31日

●『A2』

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「地下鉄サリン事件」10周年となる2005年、最後のレビューはこれしかない。DVDで森達也監督『A2』。初見。孤高の映像作家・森達也が再びオウム真理教を追った、その名の通り『A』の続編となるドキュメンタリー。時は1999年。「荒木浩とその周辺」に的を絞った前作とは異なり、「我々の社会とオウム」という視点をより前面に出しながら、各地に住む信者とマスコミや地域住民との間に生じる軋轢を描いている。変に扇情的にならず淡々としたトーンが貫かれており、だからこそ胸に深く響いてくるのは相変わらず。

各地で激しく拒絶され、追いつめられていくオウムの信者たち。違法な監視と検問、無抵抗の信者に容赦なく罵倒を浴びせる「善良な」市民、そして信者の住居を取り囲む数千人のデモ隊。カメラは、オウムに密着取材する事により「向こう」からの視線を獲得し、「こちら」からの一方的な断罪の暴力性を暴き出す。日本の社会はサリン事件から数年を経て、間違いなく反オウム色を強めている。しかしながら、その根拠となると実はかなり心もとなく、まるで目に見えない何かに怯えているかのようでもある。無自覚な加虐性、あるいは現代の魔女狩りか。危険な状況であることは言うまでもない。

ただ、希望がないわけじゃない。小さな街で育まれた、信者と住民との人間味ある交流。あるいは、「反オウム」のはずが実は冷静に妥協と解決の途を探る右翼団体。この映画は信者を取り巻く一筋縄では行かない状況と関係性を描いており、そうした描写は「彼らの世界」と「我々の社会」が全く別の所にあるわけではない、という当たり前の事を再認識させてくれる。信者も同じ人間である以上、接触があればそこに言葉や感情のやり取りが生じ、時に理解や共感が生まれるのは当然すぎるほど当然なのである。

僕が好きなのは、信者たちのちょっとした感情や未熟さ、純粋さが表れるシーンだろうか。やっぱりホッとするんだよね、そういうのを見ると。彼らが人なつっこい笑顔で冗談を言い合ったり、キティちゃんグッズを集めた女性信者が「これ教義的にはどうなんですか?」と森さんにツッコまれてしまったりとか。あと、荒木の癖毛を直してあげようと別の信者が整髪料(ムース)をつけようとして、荒木が「髪が白くなっちゃうよ」と嫌がる場面には大笑いした。なんつーか、この人たちは良くも悪くも本当に純情(あるいは子供)なんだな、という。

でも、やっぱり現実は甘くない。被害者や一般社会への「謝罪」は失敗に終わり、ますます先鋭化するオウムバッシングの中、映画は暗い雰囲気で終盤を迎える。どう考えても「出て行け」だけでは問題は永遠に解決しないのだが、しかし全国各地でオウムの信者は追い出され続けているし、また、森さんが自ら荒木に問いかけるように、「今の彼ら」が「今の社会」に融和するのは至難の業だ。信者たちが「消えてしまえば」いいのだろうか?いや、それだけで済む問題ではないし、おそらく状況はかえって悪化するだろう。いったい、本当に、どうすればいいのだろうか?

ここ3年で驚くほど老けた荒木が森さんの問いかけに対して途方に暮れたように絶句し、彼を含めた数人が人々の罵声と冷笑を浴びながらトボトボ引き揚げる場面で映画は幕を閉じる。何とも重い終わり方だ。「世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい」というのはこの映画のキャッチフレーズだが、映画の他の部分ならともかく、このラストシーンからその結論が導き出せるとはとても思えない。要するにこれは、森さんが自著にも書いているように、「『A3』に続く」ということなんだろうな…。

おそらく、次でも答えは出ない。でも、観てからまた考えたい。だから首を長くして続編を待ちたいと思う。この問題は、「決して終わらない」のだから。
 
 
 
[追記]
そう言えば、『A3』がなかなかできない理由の1つには、『A2』の興行的失敗があるのだった。実は僕も観に行かなかったんだよな~。罪滅ぼし(?)に『A』のDVDでも買わなきゃいかんかな…。

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