トレセゲの、2つの笑顔


 その時、確かにトレセゲは笑っていた。

 4年に1度のフットボールの祭典FIFAワールドカップも、ブラジルの優勝をもって幕を閉じることにとなった。5月31日以降1ヶ月弱の間にこれまでの大会と同様様々な出来事・ドラマが生まれたのだが、この大会を他の大会に比べて際だたせている一つの特徴は、番狂わせの連続による強豪の早期敗退だろう。フランス、イタリア、アルゼンチン、スペイン、カメルーン、ナイジェリア……。中でも強烈だったのは、前回優勝国フランスが勝ち点わずか1、得点なんと0という信じがたい成績によってグループリーグの段階で消えてしまったことだ。

 開幕戦。サッカー新興国セネガルを相手にフランスは立ち上がりから余裕の戦いぶりを見せていた。前半中頃、颯爽とペナルティエリアに攻め入ったセリエA得点王トレセゲがシュートを放つ。ゴールの隅を狙った巧みなシュート。キーパーはほとんど動けない。ところが、「カン!」というTVの集音マイクでもハッキリ拾えた音が響き、ゴールポストに当たったボールは大きくはねてペナルティエリアの外へ飛び出していった。完全に1点ものの惜しい場面。しかし、トレセゲは笑っていた。自信に満ちあふれたチャンピオンゆえの、余裕の笑顔。トレセゲは確信していたに違いない。「こんなこともあるさ。まあいい、失ったのはたった1点だ。この後重ねるであろうゴールの山に比べれば、大したことはないさ……」。

 だが、このシュートをきっかけにしたかのように、王者は急速に坂道を転がり落ちる。セネガルのスピード豊かなカウンター攻撃で1点を失ったフランスは、終始優勢に試合を進めながらエースストライカー・アンリの決定的なシュートがバーに阻まれるなどの不運もあってそのまま惜敗。続くウルグアイ戦では前半の早い時間帯にアンリが審判の不可解な判定で一発退場し、引き分けに持ち込むのがやっと。3戦目のデンマーク戦では2点差以上の勝利が必要という厳しい条件の下、負傷の大黒柱ジダンを強行出場させるが、やはり攻め込みながらも最後まで得点は奪えず、逆に2点差をつけられる完敗に終わった。セリエAとプレミアシップの得点王にFIFA最優秀選手まで揃え、前回W杯後も欧州選手権・コンフェデレージョンズカップと連覇して向かうところ敵なしに思えたフランスだったが、冬シーズン終盤のMFピレスの負傷、直前の練習試合でのジダンの負傷、そしてアンリ退場等々度重なる不運に見舞われ、最後まで本来の強さを見せることなく大会から姿を消した。後には世界の驚きと、フランス国民の嘆きと、選手・スタッフの茫然自失した姿だけが残った。

 3試合の中で、トレセゲが笑った場面はもう一つあった。デンマーク戦の後半、絶体絶命の状況下でなおあきらめない選手たち。トレセゲはデンマークの堅い守備をこじ開けようと奮闘し、ディフェンダーをかわしてシュートを放つ。コースを狙った、美しい放物線。しかし、またしても金属音とともにゴールポストはボールをはね返し、わずかに残っていたフランスの希望はそこで潰えてしまった。その瞬間、トレセゲは笑っていた。クールな目で見れば断じて笑うべき場面ではないだろう。まだ試合は終わっていないし、なにしろ彼は決定的なシュートを「外してしまった」ばかりの人間なのだ。他の選手やスタッフは「笑ってないで早く次のプレーに備えろ!」と言いたかったかもしれないし、彼の笑顔に不快感を感じたファンもいるかもしれない(4年前、城彰二の笑みに激怒したラモス瑠偉のように)。だが僕は思う。あの笑いは圧倒的に正しい、と。

 思うに、トレセゲはゴールポストがボールを弾き飛ばした瞬間、自分たちを取り巻くあまりの不運・不幸とそれに対して無力な自分たちの姿がひどく滑稽に思え、思わず苦笑してしまったのではないだろうか。フランスを襲った状況は、1年前のコンフェデ杯優勝時には想像もできなかったことだった。不幸というのは、それが他人のものである限り落ち着いて同情の対象や話の種にしたり、あるいは無視したりすることもできるが、いざ自分が当事者になってみるとできることは限られてくる。状況を受け入れて悲しみにくれるか、やり場のない怒りをどこかにぶつけて忘れるか、あとは笑ってやり過ごすくらいだろうか。トレセゲは3番目の手段をとった。

 人間何をやっても駄目なこともある。どれだけ頑張っても自分の力ではどうにもならないことというのは確かにあるのだ。そんな時はいつまでも悲しんでうつむいたり何かに当たったりするのではなく、どうにか笑ってやり過ごしてしまうのが一番だ(笑えるのであれば)。明日は明日の風が吹く。いつか、心の底から笑って話せる「幸福な」日も来るだろう。フットボールがこの6月で終わってしまうわけでもないし、次のW杯もある。もちろんフランス代表はまたピッチ上でその雄姿を見せ、勝利をつかむことだって度々あるに違いない。そう考えると、あのトレセゲの力ない笑顔も何だかポジティブなものに思えてくるのだ。

 「だって、しょうがないだろう。こんなこともあるさ」。

 

2002年7月2日


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