もう、楽しむしかない


 いよいよ開幕の迫ったサッカーのW杯。日本サッカー界の悲願であり4年に1度しかないこの世界的イベントは、果たして成功するのか、それとも失敗するのか?大会中も、そして大会後もこれに関しては様々なことが言われるだろうが、しかし大前提として考えておかなければならないのは(というかもっと早い時期に明確にすべきであったのは)、大会の成功度を判断する「基準」だろう。それは、我々がいったい何のためにW杯を開催するのかという「理由」「動機」でもある(はずだ)。いったい「W杯が成功する」とは、どういうことなんだろう?

 まずは、多くの人が思い浮かべるであろう、経済的なこと。以前はよく「W杯の経済効果は〜億円」みたいな記事を見かけたものだが、最近雑誌等でもとんと見なくなった。これは、みんなそろそろ「W杯というのも思ったほどのうまみはなさそうだ」ということに気づきつつあるからだと思う。W杯関連の商品はFIFA(国際サッカー連盟)が徹底的なライセンス管理を行い、ほとんどの利益はオフィシャル・スポンサーや関連企業に入る仕組みになっている。また、巨大スタジアム建設などでは確かに建築業者等が一時的に潤うことにはなっただろう。が、先々使う見込みのない施設まで建ててしまったことはこれから確実に各自治体の財政を圧迫し、先々地方経済(そして国家財政も)の首を絞めることになる。観戦客の宿泊や飲食といった波及効果にしても、各開催地で3〜4試合しか行われないこと、これまたFIFAの思惑に振り回された(大量のホテルキャンセルとか)ことなどから多くは望めなさそうだ。総じて言えば、W杯を利用してうまく「当てる」ところ(特にゲームメーカーとか)は出てくるだろうが、各業界がそれほど「潤う」ことにはなりそうもない。そもそも日本の現在の産業構造・経済状態を考えれば、今さら東京五輪の時代じゃあるまいし、大きなイベントを一つ開催したくらいで日本経済に目に見える効果があるとは思えない。

 次に、視点を変えて、大会自体の運営について。これも日本開催分のチケットを巡る騒動に象徴されるように、数え切れないほどの問題を抱えているのは明らかだ。ひたすら利権を追求するFIFA、それに群がって甘い汁を吸いながら肝心の業務では無能力・無責任ぶりをさらけ出すFIFA御用達企業、自分の厳格なテリトリー以外はひたすらそしらぬふりを決め込むJAWOC。本来最も大切にされなければならない「顧客」たるサッカーファンは完全に無視され続けている。1年以上も前からチケットの名義を確定させる無理を強いながら開幕1週間前になってもチケットが申込者の手元に渡っていないなどということは、全くもって許されることではない。交通不便の開催地が多いこと、過剰な警備等から実際の会場においても多くの不安があり、このままでは終わった後で「優れた運営だった」などとはとても評価できないだろう。

 参加国のキャンプを誘致した地方の市・町・村などが大いに期待しているであろう「国際交流」という面ではどうだろうか。これに関しては、そもそも誘致する側とされる側とで思惑のズレがあるように見受けられる。受け入れ側の自治体等では地元民との触合い・地元チームとの親善試合・歓迎式典に力を入れているようだが、しかし参加チームにしてみればあくまで世界一を目指す真剣勝負だからこそはるばる極東の島国までやってくるのであって、できれば余計なことに煩わされることなく調整・試合に集中したいというのが本音だろう。実際にいくつかの国が来日してからはスケジュール調整や練習試合のドタキャンなどを巡ってもめているところも出てきているようだが、ある意味当然であったと言えよう。また、世界数十億の人々が見るこの大会で日本の文化・風物をアピールしようなどというのも、あまり効果がないように思える。僕たちはシドニー五輪の時にオーストラリアの文化について、また前回W杯の際にフランスの風物についてより多くの知識を得たと言えるだろうか?答えは、限りなくNOに近いのではないだろうか。ほとんどの国の人々にとって、日本とはたまたま大会の会場になった場所にすぎない。さらに観客としてやってくる外国人に対する扱いも、愚かな警察・自治体の過敏な「フーリガン対策」とやらでとても「もてなし」の域に達しているとはいえない。悪くすると、W杯は外国(特にイングランド)のサッカーファンの日本に対する嫌悪感だけを生んでしまうことにさえなりかねない。

 四つ目は、最初に大会招致を思い立った人々の意図である、サッカー文化が定着するか否かということ。日本におけるサッカー文化の普及・定着においてW杯開催が要件の一つではあるにしても、そもそも大事なのは今回の体験・経験を生かして大会後に(Jリーグを筆頭として)どうサッカー環境を整備していくかであって、W杯を行ったからといって日本サッカーが必ず栄えるというわけでもなければ、W杯が大成功しなかったからといってサッカーに未来がないというものでもない。個人的には横浜市あたりの「W杯には熱心だがスポーツ環境整備には不熱心」という自治体の姿勢を見ているとどうも先々について暗澹たる思いにとらわれてしまうのだが、それをもってW杯の成功失敗に直結させるのも無理があるだろう。

 どうも、ここまで見た限りでは雲行きがあやしそうである。様々な点について「こんなはずではなかった」という思惑違い・期待外れが生まれることは避けられなさそうだ。では、僕がW杯という大会の成功についてあきらめていしまったかというと、そんなこともなかったりする。そもそも今回のW杯が成功する鍵は、上に挙げた4つの点とは違うものだと思うからである。キーワードは、「日本代表」と「楽しむ心」だ。

 日本代表の活躍。これこそ、様々な困難・思惑違いを全て吹っ飛ばして大会(日本開催分)を成功に導きうる第1の決定打だ。近年の例でも、例えば94年のアメリカ大会。プロサッカー不毛の地での開催に大会前は懸念する声が多かったものの、ミルティノビッチ監督率いる合衆国代表は個性豊かなメンバーが爽快なサッカーを見せて予選リーグを突破、決勝トーナメントでは優勝国ブラジル相手にあわやの大健闘を見せた。結果、事前の心配などどこ吹く風、スタンドは「USA!」の合唱で沸きかえり、地元マスコミもこの「世界中で流行っている(らしい)スポーツが」と一斉に注目、大会の盛り上がりは軽く「合格点」を超えたのだった。98年フランス大会でも、大会前の仏国内は比較的クールな雰囲気に包まれていた記憶があるが、フランス代表が快進撃を見せて優勝までかっさらうや、シャンゼリゼはどこから湧き出たのか無数のサポーターで埋まったのだった。日本代表が今回決勝トーナメント進出(期待が大きいのでこれじゃまだ駄目かな)、さらにはベスト8進出なんてした日には、事前に想像すらできなかった熱狂が日本列島を支配したとしても不思議ではない。五輪大好きのお国柄でもあるのだ。ただ、ホームの利・3年以上に渡る継続的強化で着実に力をつけているとはいえ、今の日本の実力はややひいき目に見てグループ2位争いといったところだろう。予選で敗退しても少しもおかしくはない。代表チームのみに大会の命運をかけてしまうというのも、少々苦しいかもしれない。

 では、どうすれば大会は成功するのか。ここでは、まずは初心に帰ろう、と言いたい。つまり、大会やそれに関する事物現象の多くを楽しんでこそW杯の成功がある、ということだ。これは「日本代表活躍=大会成功」という方程式(笑)とも大いに関係するところだが、恐らくW杯のような大きなものであってもそれが「イベント」あるいは「お祭り」である以上、その働きかける対象は究極的には人々の心だろう。祭りといえば「日常のケを落とすハレの場」だというのが民俗学的定義だが、これは高揚・快感によって普段のウザい事柄を心から流しさることと考えればよい。であれば、その効果=成功の度合を測定する最大のポイントは、「楽しめるか否か」。ズバリこれしかない。そう、楽しんでしまえばいいのだ。

 こういう言い方は一歩間違えれば「楽しいと思えば何でもオッケー」な『脳内革命』的発想になってしまいそうであるし、スポーツに関してやたら「エンジョイ」を強調するのも正直気持ちが悪いと思うのだが、しかしここで「楽しむ」というのはそうした短絡的なもののみにとどまらず、2002年W杯が僕たちの住む土地で行われるという体験・経験を大事にしようという意味でもある。せっかく僕たちの大好きなサッカーの世界最高の大会がすぐそこで、僕たちになじみの深い場所・スタジアムで行われるというのに、それを楽しまないでいったいいつ楽しむというのだ。別にスタジアムに駆けつけたりグッズを身に着けたりしなくても、その人なりのやり方で結構(部屋でビール片手に映りの悪いテレビで見ようとも、W杯はW杯だ)。とにかくサッカーファンがW杯をそれなりに楽しみ、その体験を共有し記憶の中にとどめ、後々のサッカー体験をより豊かなものにしてこそ「W杯は成功した」と言いうるのだと思う。そうしてサッカーファンが笑顔で楽しんでいるうちに今までサッカーに対して冷めた目で見ていた人ももしかしたら関心を持ってくれるかもしれないし、そうなれば楽しみの範囲がまた広がっていくことになる。あるいは「できるだけ多くの人が共に楽しめるように」という発想を中心にすれば、犯罪者予備軍扱いとは全く異なる外国人へのフレンドリーな対応だってできるようになるだろう。日本にとってだけではなく世界的な視点での成功へも道が開けてくるかもしれないのだ。こういう意味で大会を成功へ導いて初めて、経済的な波及効果や国際交流(中津江村を見よ!)、さらには先々のサッカー文化の発展へとつながっていくにちがいない(だからこそ、ファンの楽しみを無視した運営だけは許してはならないのだ)。まずは、僕たちが楽しむこと。これだけは忘れてはいけない。というか、ここまできたらもう、楽しむしかないのである。

 

2002年5月30日


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