審判をほめよう!


 国内のサッカーシーズンも開幕まであと1ヶ月足らずとなったこの時期、ひとつ心に決めたことがある。それは、今年は意識して審判をほめよう、ということだ。

 昨シーズンのJリーグでは、例年通りと言おうか、レフェリーのひどいジャッジが非常に目立って物議をかもした。僕が実際目にしただけでも、開幕東京ダービーでの度重なるファウル見逃し(小幡主審)、柏×東京戦でユ・サンチョルが佐藤由紀彦にパンチをかましたのに双方退場になった件(石山主審)、同じ試合におけるペナルティエリア内での悪質な後方からの引き倒しの見逃し、鹿島×東京戦での基準のコロコロ変わる不安定な判定(キム主審)、東京×神戸戦において負傷したアマラオがとことん無視され(柏原主審)、さらに同じ試合でアドバンテージの取り方がひたすらでたらめであった事、等々。また、J2でも仙台スタジアムにおいて恩氏主審がヒステリックにカードを連発し、双方合わせて4人が退場となって審判団にペットボトルの雨が降り注ぐ事件もあった。その度、僕たちはスタジアムでブーイングや罵声を浴びせ、活字やウェブサイトにおいて容赦なく批判し、レフェリングの改善を祈りつつわずかなカタルシスを得たのであった。

 しかしよく考えてみれば、数の多い少ないはともかく、非常に高いレフェリングの技術を持った審判ももちろん存在するし、調子の波によってある時はとんでもない判定をしていた審判がまたある時にはきっちり試合を裁いていたりすることも確かにあるのである。昨季限りで引退したモットラムさんは(もちろん多少の誤審は含みつつも)明快かつ厳格な判定と試合のスムーズな流れを両立させ、非常に面白い試合を演出すると同時に僕たちを安心させてくれたのであった。そして、何かと話題になった恩氏主審も、上記事件後に東京×セレッソ大阪戦で実際に見た時はほとんど違和感を抱かせず試合を裁き、少なくともその試合に関しては及第点であったと思う。しかし、こうした審判に対する賞賛・レフェリングに対する一定の評価というのは批判・罵倒に比べれば現場でも活字・ウェブでもボリュームが非常に小さく、「普通の」ファンが目にすることはほとんどないとさえ言っても良いのではないのだろうか。それは審判の重要性を鑑みるなら、過度に小さな扱いと言えるだろう。

 そもそもサッカー(というかスポーツ全般)において、審判というのは損な役割である。無難に試合を裁けばそれが当たり前として存在は意識されなくなり、誤審やPKやカードを出す時ばかりクローズアップされる。負けたチームの選手・スタッフは言い訳の定石としてレフェリングの偏りを口にし、観客もひいきチームに不利な判定には(それが正しいジャッジであったとしても)ブーイングの嵐である。そして上で述べたような「批判過大、賞賛過小」の傾向は、マスコミ報道の増大・個人ウェブサイトの開設の普及というサッカーに関する情報化が進む中、ますます増幅していく(あるいは今まさにしている)ように思えてならない。

 さらに、大抵の場合審判の地位は「アマチュア」であり、彼らは他の職業に従事しつつ「余暇」を好きなサッカーのために費やしているのである。そんな彼らが審判としての活動を続けていくモチベーションは何かと考えてみると、それは審判という存在がいてこそ試合が成り立ち人を感動させるプレイも生まれるというプライドや、サッカーという競技に対する純粋な愛情であろう。彼らは「けなされ、褒められず」の環境の中で現在自分を律しているわけだが、その環境がますます悪化していくとすれば、モチベーションに対する悪影響が気になってくる。頑張っても評価されない、報われない状況におかれた人間は向上心を維持していけるものだろうか。「レフェリングの改善」という我々の望む方向とは逆に進んでいってしまうのではないか。あるいは選手もスタッフも制度も進化していく日本サッカーの中で、審判だけが技術的にもモラール的にも取り残されてしまうのではないか。そんな心配さえ頭をよぎる。

 だから、これからは、いい仕事をした審判を、しっかりほめ称えよう。きちんと試合をコントロールした審判には退場の際に拍手を送り、試合をレヴューする際にはレフェリングに関する良い評価もたまには盛り込むようにしよう。選手・スタッフも、よほどのことがない限りは審判に敬意を表し、試合終了の笛が鳴れば握手で終えるようにしよう。

 これは、なにも盲目的に「審判スゴイ、エライ」と賞賛し、あらゆる場面において無謬とみなそうなどと言っているのではない。これまで同様ひどいレフェリングには疑問や批判を突きつけつつ、良いレフェリングはきちんと評価するという、当たり前のことながらこれまでできていなかったことをしようというだけだ。人間は、自分の行動について正しく評価されれば、それが良い評価であれ悪い評価であれきちんと省みて次に生かす能力を持っている。その能力を生かしてレフェリングを改善するためには、審判自身の努力だけではなく、僕たちのような観戦者=評価者や選手・スタッフにもより成熟した態度が求められるということだ。もちろん、レフェリング向上の方策としてはプロ化・報酬アップ等の待遇改善も考えられるだろう。しかしそれは、より良いレフェリング実現のための環境整備の一つに過ぎない。審判という肩書きを持つ人たちが自身の意思でより技術を向上させ、より高い意識を持つようにしてもらわなくてはならないのだ。人の、心と知性に訴えかけよう。

 そして、もう一つ注意しなければならないのは、「審判をほめよう」と言った時、それが「ほめてやる」といった見下した視線や審判を「利用しよう」といった功利的な視点にも偏ってはならない、ということだ。原点に戻って考えよう。審判は、プレーヤーと同様にフィールドの中で試合を行い、さらにはスタッフやファンとサッカー(スポーツ)の空間を共有する「仲間」のはずなのだ。サッカーを見た人は皆、美しいプレーに感嘆し、優れたコーチングは機会を見つけて賞賛し、素晴らしい応援には拍手を送る。それが当たり前である。そうした視点・態度を審判にまで広げることにより、バランスよく日本サッカーのレベルを上げていくことができれば、サッカーに関わるもの全てにとってより幸せな環境を実現できるのではないかと思うのだ。

 

2002年2月3日


戻る            ホームへ