歴史は繰り返す
早いもので、21世紀最初の年ももう終わろうとしている。今年も僕は暇を見つけてはスタジアムへ足を運び、あるいはテレビのチャンネルを中継に回し、とにかくスポーツ観戦に明け暮れた1年だった。例年と同様印象に残ったシーンは数多くあったのだが、秋も終わりに近づいた頃にふと思った。近頃は以前に比べて「何だかこのようなシーン、見たことがあるな」という感じ、すなわち既視感(デジャヴュー)を覚えることが多くなってきたのではないか。
例えば、J2最終戦。前節ホーム最終戦の敗北で3位に転落、自力昇格の望みのなくなったベガルタ仙台がアウェイで京都に対し1−0の勝利。2位の山形がホームで川崎相手に取りこぼし、仙台の劇的昇格となった。試合終了後グラウンドになだれ込んで選手と抱き合うベガルタサポーターの姿を見て、まず頭に浮かんだのは一昨年のJ2最終戦のことだった。あの時のFC東京もやはりホーム最終戦での敗北(相手は仙台だった!)により自力昇格が消滅。しかし最終節アウェイの新潟では加賀見のゴールで1−0とアルビレックスを下し、一方その時点で2位だった大分は山形(!)相手に勝ちきることができず、東京は逆転昇格を決めたのだった。大分の引き分けが決まった瞬間に東京サポーターが選手たちに向かって走り出し、ピッチ上でお祝いの大騒ぎが繰り広げられるのを僕はスタンドから見ていた。最後まであきらめなかった末の歓喜。「ああ、あの時と同じだな」。
例えば、競馬の天皇賞(秋)。乱ペースから4コーナーで馬群がひとかたまりになり、G1七勝の絶対王者テイエムオペラオーが早めに抜け出す。オペラオーは先頭に立ってからも着実に脚を伸ばし、他馬は見えない壁でもあるかのように差を詰めることができない。しかし、観客のほとんどがオペラオーのG1八勝目を確信した直線坂上、大外、ほとんどテレビカメラの外からすっ飛んできた馬がいた。アグネスデジタルだ。アグネスはもの凄い勢いでオペラオーに並びかけ、一気に抜き去った。横に離れた位置での追い込みにオペラオーは抵抗することすらできず、G1勝利新記録誕生の夢は伏兵の前にうち砕かれた。僕は、やはりこういうレースを前に見たことがある。85年の同じ天皇賞(秋)だ。あの時は「皇帝」シンボリルドルフがシンザンを抜く6冠目をかけて出走、直線一旦は先頭に立ったが伏兵ギャロップダイナの大外強襲に屈したのだった。ちなみにアグネスデジタルとギャロップダイナはともにマイラーで、天皇賞の他にマイルG1を勝っているという共通点もある。
例えば、プロ野球日本シリーズ。最近ではこの短期決戦に関して経験の有無が強調されることも多くなってきたが、今年も十数年ぶりに出場した近鉄がシリーズ経験者を多く揃えたヤクルトに完敗した。この近鉄の負け方、力負けというよりも自分の力・自分の持ち味をほとんど出せないまま4敗を喫してしまったという様子は、かつて野村監督時代のヤクルトが初めてのシリーズで森西武に歯が立たなかった時、そしてシリーズ常連となったそのヤクルトによってイチローを擁するオリックスの初挑戦がはねつけられた時を思い起こさせるものであった。おそらく、この「戦力が近いチーム同士ならば、シリーズ経験がある方が勝つ」というパターンはこれからも繰り返されることになるのだろう(ちなみに例として取り上げたヤクルトとオリックスはいずれも翌年には見事日本一になっているのだが、近鉄はさてどうなるのだろう)。
やはり歴史は繰り返すのだ、とつくづく思う。以前よりも強くそう思うようになったのは、別に競技自体が同じ内容を反復する傾向を強めたわけではなく、僕の持つ観戦の経験・知識の量が増えてより多くのパターンを認識(当てはめ?)できるようになったということなのだろう。人は、抽象化能力をもつ動物である。目の前の物事を認識すると、それを記憶する際に特徴的な部分を抽出してパターンとしてしまい込む。そして日々の状況・出来事に直面した際に認識・理解の助けとしてそのパターンを引っ張り出す。簡単に言えば、毎年それなりの数観戦しているおかげで頭の中の「引き出し」が増えたということだ。
もちろん、スポーツはただ同じことを延々と繰り返すだけのものでないのも事実である。僕の(本当の「専門家」に比べれば)貧弱な知識・経験からすればパターンの枠にはめられない状況はまだまだたくさんあるし、もしかすると今までのスポーツの歴史上全くあり得なかったことが起こる(起こっている)かもしれない。しかし、いずれにせよ多くのパターンの「引き出し」を持つことで個々の出来事について過去の事例と比べることができ、思考が深まることでスポーツ観戦がより豊かなものになるであろうことは間違いない。
今年と同様、僕は来年も、そして再来年もスタジアムへ足を運び、あるいはテレビの画面を通してできるだけ多くのスポーツを観るつもりだ。繰り返す歴史を確認するために、そして繰り返しでない新鮮な何かを発見するために(それで何かを発見したとして、先々それがまた繰り返されることを目撃するのだ)。先はまだまだ、長い。
2001年12月29日