ジャパンと日本選手権をめぐる「戦いの意義」


 少し年季の入ったファンなら誰もが知っていることだが、ラグビー・フットボールを支える根本思想の一つに「対抗戦思想」というものがある。これは、互いに相手を認めるチーム同士が話し合い対戦を決めてどちらが強いかを競い合う(終わった後には肩を組んで杯を交わす)というもので、マッチメイクをあくまでチームとチームの一対一の関係に置き、互いに対する「対戦するにふさわしい」という敬意によって試合が支えられるところに特徴がある。日本における典型例は「関東大学ラグビー対抗戦」。現在ではリーグ戦と化しているこのグループ、かつては客観的な実力抜きに(例えば東大などの弱小チームも交えて)各大学同士の話し合いでその年のカードが組まれ、構成チームはほぼ一定なのに毎年の対戦相手もチームごとの試合数も異なるという「変な」グループだったのである。その伝統の名残として、グループ内の優勝争いとは別に「早慶戦」「早明戦」といった伝統ある定期戦が特別に重要になっているのは周知の通りである。こういう思想の下では本来、常に一戦一戦の試合の意義というものが選手・関係者・観客に意識されながら試合が行われることになる。欧州の五カ国対抗ラグビーやケンブリッジとオックスフォードの定期戦「バーシティマッチ」など、W杯およびプロ化(オープン化)以前の世界のラグビー界もまた、長年この「対抗戦思想」によって成立してきたのである。

 この対抗戦と対になる思想が「選手権思想」や「グループ戦」と呼ばれるもの。これは統括団体が決めた日程に従って所属チームがノックアウト(トーナメント)方式、あるいは総当たり方式で最も強いチームを決定するもので、大学ラグビーでも上記「対抗戦」の外に同じ関東に「グループリーグ」(関東学院、法政、大東など)が存在するし、あるいは社会人ラグビーや全国大学選手権などもこうした発想の下に行われている。リーグ優勝の追求が第1目標となることにより、その時々の実力者相手の試合が伝統的定期戦以上に重要な一戦となる。もっとも「全ての所属チームの中で決める」とは言っても、現在ではこうした思想の下に行われる大会はたいてい、出場資格を限定したりシード制を導入したり戦績別に1部2部3部と区切ったりしてミスマッチを防ぐようにしている。この場合にもやはり対抗戦思想と同様に「ふさわしい相手とふさわしいゲームを」という原則は保たれていると言えよう。実力の接近する相手と戦うことを保証する仕組みにより、試合の意義が確保されるのである。両者の違いは、「ふさわしい相手」を認定する尺度が主観的なものか客観的なものかという違いだ。後者、すなわち「選手権思想」「グループ戦」の方が、他のスポーツのファンにとっては大いになじみのあるものだろう。

 もっとも、例えばサッカー界にしても、実は「選手権思想」のみによって成り立っているわけではない。日本代表が98年にアルゼンチンと正真正銘の国際Aマッチを行うことができたのは、確かにW杯という「選手権思想」に基づいた仕組みによるものである。だが、日本代表の近年の戦績を10年前のものと比べてみると、国際大会以外のテストマッチでの対戦相手も格段にレベルアップしているのに気付く。三流国代表か一流国クラブチームの2軍相手しか国際試合を組めなかった昔からすれば、親善試合でフランス代表やブラジル代表などと毎年のようにマッチメイクできている現状は全くの驚きである。果たして何が変わったのか?それは、もちろん日本がW杯開催国になったという事情もあるが、それ以上に大きいのは、日本代表が五輪やW杯・アジア杯でそれなりの戦績を残したおかげでサッカー強豪国の日本を見る目が変わり、それなりの関心・敬意を払ってくれるようになったことだろう。まだまだ一流国には及ばないにしても、日本代表がそれなりに「戦うにふさわしい相手」と認められたということだ。ここには「選手権思想」的なものから「対抗戦思想」的なものへのフィードバック、あるいは客観的評価の獲得による主観的評価の改善が見られる。このように周りの「見る目」が変わるということは地位を得るということであり、ある意味国際大会で上位に入ることそれ自体よりも喜ばしいことなのかもしれない。

 とまあ、こうして「対抗戦思想」「選手権思想」を巡る一般的なことがらについて再確認してみたわけだが、僕がこんなことを書きたくなったのも、昨年から今年にかけてのラグビー界で「対戦相手に対する敬意」や「戦いの意義」について考えさせられる2つの出来事があったからだ。

 1つは、昨年11月に行われた日本代表の欧州遠征。この遠征でジャパンは初戦のフランスA戦こそ23−40とそこそこ戦ったものの2戦目でアイルランドU25に13−83と大敗。3戦目、遠征の最大目標であったアイルランド代表とのテストマッチでも立ち上がりの健闘空しく9−78の惨敗を喫した。アイルランドU25戦の敗戦後すでに地元マスコミからはテストマッチを行う意義に対する疑問が呈せられ、はっきり「ミスマッチだ」との声が上がっていた。そして最終戦後には、ジャパンを「世界のラグビーの雑魚」と形容する見出しが新聞に掲載されたとのこと。この遠征でジャパンは、あるいは日本のラグビー界は、相手から何の敬意も評価も得ることは出来なかった。テストマッチ中のスタンドの雰囲気もひどく緊張感に欠けたもので、軽視されている、もっと言えば馬鹿にされている雰囲気がテレビの画面を通しても伝わってきて、ひどく悲しかったのを覚えている。この遠征自体IRB(国際ラグビー評議会)のコーディネートによるものだったが、もはやジャパンが第1回W杯やウェールズ遠征のように一流国に請われて遠征することがあり得るのだろうか?おそらくないだろう。再び世界に日本ラグビーの実力と魅力を知らしめる日までは。

 そしてもう1つは、先日行われた日本選手権1回戦の4試合だ。社会人と大学生の実力差は年々開く一方だが、今年もファンの抱いていたわずかな期待も空しく、大学勢はあっさり全滅。日程的に学生が大きなハンディキャップを背負っていることは事実だが、それにしても埋めがたい地力の差があったように見えた。そして何より、点差・試合内容以上にショックだったのは試合後の社会人チームのコメントだ。「全く意味を感じない」「協会がやれと言うからやっている」「かえって次の試合へ向けてペースが狂う」……。学生側が慶応を筆頭にそれなりの工夫を凝らして対抗しようとしていただけに、両者の意識の落差・試合の意味づけの違いがことさら際だった。社会人側は「戦いの意義」に関する意識も相手に対する「戦うにふさわしい」という敬意も持っておらす(持てず)、見ている側からしても「こんな戦いに意義があるのだろうか…」と考え込んでしまう試合後の雰囲気だった。3年前の明治のサントリーに対する健闘や昨年の慶応のNECとの戦いぶりなどを目撃して日本選手権にもそれなりの意義があると信じていた僕でさえも、今年の様子をみればさすがに現行方式での継続はもはや不可能と言わざるを得ない。

 では、このような状況に陥ったジャパンや大学チームが再び相手の敬意・評価を取り戻すためにはどうすれば良いのか?答えは一つ。主観的な評価それ自体を簡単に取り戻すのは不可能であるのだから、客観的な、誰にでも分かる形で実力を示して認めてもらうしかない。近年のサッカー日本代表がそうしているように、そしてかつてのラグビー日本代表がそうしたように、である。ジャパンに関しては、とにかく環境を整え、熱心な研究を行い、良いコーチを招聘して強化するしかないだろう(もちろん、言うは易く行うは難しだが)。より問題なのは、大学の方だ。思うに、そもそも社会人と大学はあくまで別のカテゴリーなのだから、現行方式のように対等の扱いをしていること自体がおかしいのである。これまでそのおかしさ・実力差を何とか繕ってきた日本選手権の「戦いの意義」は、上で述べたようにもはや当事者レベルで消失している。ここは、社会人の実力が学生よりも全般的に、特にトップ数チームでは数段上であることを素直に認めて制度を再構築すべきだろう。個人的意見を述べさせてもらうと、サッカーの天皇杯のように参加チームを大幅に増やし、社会人トップ数チームはシードとし、学生代表は1回戦で社会人Bランクと当たるというふうにしてはどうか。これなら、大学から社会人に挑戦しうる実力を持ったチームが現れた場合に、客観的な実力を証明した上で強豪に挑むことが出来る。そういう手順を踏んでこそ、主観的にも「ふさわしい相手」としての地位を取り戻しうるのだろう。

 ともかく、戦う当事者たる選手・コーチが「戦いの意義」を感じられず「何となく」試合を行うことほど空しいことはない。我々観客にとってもそれは同様である。昨秋からの流れを見る限り、日本ラグビーが復活するにはまず代表レベルから草の根レベルに至るまでが目の前の試合の意義を自覚し、対戦相手に敬意をもちつつ全力を尽くせるような制度と環境を構築することが最も必要なのではないか。つくづくそう思えるのだ。

 

2001年2月20日


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