「スタイル」という武器をめぐって


 2ndステージの5連敗でやや色あせた感もあるが、それでも今年のFC東京が発揮しているパフォーマンスは尋常ではない。「昇格チームは苦戦する」とのジンクスを破り、横浜・名古屋・磐田・清水といった強豪を次々に撃破。現在、年間総合順位で上位と僅差の7位につけている。昨年ギリギリでJ2からの昇格を決めたチームが、そして一昨年までは一社会人チームだったクラブが、である。別にそれほど戦力がUPしたわけではない。補強は主に他チームから弾き出された選手を拾う限定的なもので、まだ「社員選手」も多く残っており、選手個々の能力の総和を比べたらJ1でも下位に位置するに違いない。そのチームが、日本代表をズラリと並べるビッククラブと互角以上の争いを繰りひろげているのだ。これは一体どういうことなのだろう?

 一つ確かに言えるのは、FC東京が確固たる独自のスタイルを持っている、ということだ。惜しみない運動量、献身的な守備、ダイレクトパスを主体にした手数をかけない攻撃…。「堅守速攻」「カウンターサッカー」「リアクションサッカー」「部活サッカー」「セクシーフットボール」等々、呼び名は様々あれど、東京のサッカーを見たことがあるものなら誰でも思い浮かべる「FC東京のサッカー」が確かにある。

 スポーツ、特にチームスポーツにおいて、自分なりのスタイルを持っているものは、強い。それは、競技におけるスタイル、すなわち「我々はこう戦うのだ」というものが、個々人の能力発揮に方向性を与え、複数の能力を一つの集団の力として束ねてくれるからだ。強化の過程で、あるいは試合中苦境に立った時、とるべき選択肢・行動について迷うことはどのチーム・選手でもあるだろう。そういったときに道標を与えてくれるのがそのチームのスタイルなのだ。ことは戦術の統一といったレベルにとどまるものではなく、戦いの場での精神の問題にもかかわる。一貫したスタイルの下で強化されたチームは1+1が3にも4にもなるものなのだ。

 FC東京と同じJ2からの昇格組である川崎フロンターレはオフに大幅な補強を敢行、昨年までのチームの面影はほとんど残らないまでの変化を遂げた。その結果はどうなったか?また、磐田・鹿島・柏といったここ数年のJ1でコンスタントに成功しているチームも、多くが一貫した強化方針を貫いて「我々の戦い方」が浸透しているチームであり、一方、派手な補強の割に苦戦を続けている京都などが一向にスタイルの定まらないチームであることも言うまでもない。こうした状況を目の当たりにして、ただの寄せ集めでない「チームとしての力」を得るためには、スタイルを獲得することが何よりも重要なのだと、あらためて思う。

 サッカーとは別のフットボール、ラグビーに目を向けてみても同じことが言えるだろう。昨年の第4回W杯で平尾誠二率いる日本代表は3連敗、奪ったトライが僅かに2つという惨憺たる成績で予選敗退した。大会後、平尾監督や日本ラグビー協会は敗因を「体格の差」「時間不足」「個人の能力の差」に求めたが、それらは初めから分かっていたことで、あくまで前提のはず。その前提の上で「どう戦うのか」が問題なのだ。それなのに就任から2年半あまりの間、平尾は長年日本ラグビーが積み重ねてきた戦い方を「伝統工芸」「型にはめること」と呼んで否定し、コンタクト中心の「正攻法」に固執。外国人選手の大量起用などで一定の戦果は挙げたものの、肝心の(「小さいからこそ」の戦い方を見せるべき)本番では体格・個人能力に優れる相手と同じような戦法でぶつかり、当然のように惨敗してしまった。残念ながらW杯でのジャパンの戦いぶりには、かつてはあったはずの、小さい者が大きい者を倒すためのジャパン独自のスタイルはどこにも見られなかった。平尾はやたらと選手個人の判断を強調するが、そもそも判断する上でのよりべなくして、どうして戦えるというのだろう。個々人の能力で劣る側がチームを束ねるための芯を用意しなくて、どうして勝利が可能だろうか。

 サッカーに話を戻すと、僕はラグビーW杯での日本惨敗もあって、平尾ジャパンと同じように確固たるスタイルが一向に見えてこないトルシエの日本代表には大いに疑問を抱いている。個々の選手の能力の引き出しを増やす等の点で「コーチ」トルシエがそれなりの実力を持っているのは間違いないし、弱敵相手とはいえ五輪予選を苦もなく突破したのは評価しても良いだろう。だが、「フラット3」なる言葉が一人歩きするばかりでチーム全体のコンセプト(「攻撃的」であるくらいの意図は分かるのだが…)も選手起用の意図もはっきりせず、試合中には支離滅裂な交代を繰り返すトルシエの指揮官としての能力が僕には信用できない。こんなに全体像の見えない、芯の見あたらないチームが国際大会の修羅場で結果を残せるのだろうか、と思う。「トルシエのサッカー」あるいは「日本のサッカー」と呼ぶべきものが今、果たしてあるのか?支持か不支持かと問われれば、僕ははっきりアンチトルシエである。

 ところが、かくも「スタイル主義者」たる僕もシドニー五輪を目の前にして、いささかの心の揺らぎを感じていることは告白せねばならない。サッカーとラグビーの日本代表では(あるいはFC東京のようなチームと日本代表とでは)、大きく違っている点が一つある。それは、選手の才能だ。サッカー五輪代表は、他国もうらやむ(であろう)キラ星のごとき才能を抱えている。中村、中田英、柳沢、本山、稲本、松田等々…(あと、忘れちゃいけない小野伸二も!)。彼らが、世界に現存するスタイルの枠内ではなく、トルシエ流サッカーの下で才能を全開させた時、もしかしたら僕たちが今まで目にしたことのないような(あるいは古今の伝説的チームに匹敵するような)美しいサッカーが展開されるのではないか?系統的・システマティックな好プレーにとどまらず、リゾーム状に発生するスーパープレーを数多く目撃できるのではないか?そのサッカーが見られるのはシドニーになるかもしれないし2002年の日本になるかもしれないし、あるいは見られないまま終わってしまう可能性が最も大きいのだろう。しかしながら、その可能性−スタイルの超越あるいは新しいスタイルの創造の可能性−に気づいてしまった以上、トルシエジャパンの行く末を最後まで見届けたい、という気持ちがほんの少しではあるが、僕の中にわいてきているのもまた確かなのである。

 

2000年9月12日

 

追記:シドニー五輪では長らくの(長すぎるような気もするが)チーム作りの甲斐あってトルシエ・スタイル(コンパクトな中盤・攻撃的陣形やチームワークによる守備)がそれなりに開花した。トルシエの、コンセプトも含めたチーム作りの能力に対する評価は、少々改めなければならないかもしれない。ただ、監督の仕事のもう一本の柱である「采配」に関しては、勝負所で攻撃的交代ができず、結局致命傷になった。言い換えれば、肝心なところでスタイルを貫けなかったということ。うーむ。

 

2000年10月14日


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