サイレンススズカの死と「風向き」


〈いつか、笑って話せる日も来るさ〉

 10月下旬から11月までラグビーW杯アジア予選観戦のためシンガポールに行っていたのだが、帰ってみるととんでもないことが起こっていた。天皇賞でのサイレンススズカの事故である。最近はG1レースともなれば一般のニュースや新聞でも取り上げられるのが普通となっているが、今回の天皇賞(での事故)は各メディアでいつにも増して大きく取り上げられていたようだ。スズカの事故は余りにもショックが大きく、この原稿を書いている時点では競馬マスコミや熱心なファンの間でもまだ受け入れて消化できていない状態(冷静さを欠いた意見が多く見られる)であり、一般マスコミ・メディアともなれば余計に的外れもしくはステレオタイプの論調が目立つ。最も多く見られるのは、「競馬は残酷だ」という類の物言いだ。家畜でもペットでも競走馬でも動物園でも人間が動物と関わる際には大なり小なり残酷な部分が生じざるをえない。競馬が残酷なのは事実だが、あるべき人間と動物との関係といった、もう少し深く広い視野からも論じてくれるメディアがあってもいいような気もする。こういう論調が「競走馬の骨折=安楽死」といった誤った情報(こう思っている人はけっこう多い。実際には治療しても救えぬ重度の骨折の場合だけ安楽死となる)とあいまって競馬の社会的イメージを悪化させるのではないかと心配だ。

 社会的イメージなどは脇において純粋に一競馬ファンの立場で考えてみても、残念でならない。あれほどまでのスピードの持続性を持った馬は今までの日本競馬には存在しなかった。もしかしたら、1800〜2200mの良馬場という条件ならば史上最強馬だったかもしれない。天皇賞は走りきっていれば歴史的大差で勝った可能性が大きいし、海外遠征でも十分期待できただろう。強さだけではなく豪快な大逃げのレース振りも我々の血を大いにたぎらせてくれた。種牡馬としての血統的な魅力も豊富で、競馬界にとってはナリタブライアンの死に匹敵する損失となった。レース前には「鉄板より堅い」と思っていたが、この世には絶対ということがあり得ぬことを改めて思い知らされた。一ファンに過ぎない僕でさえショックで落ち込んでしまったのだから、関係者の悲しみや落胆はいかほどであろうか。翌週にはサイレンススズカの弟の菊花賞取り消し、橋田・武コンビの降着、武騎手の騎乗停止事件もあり、全く悪夢である。

 

〈ツキ、風、流れ〉

 それにしても、サイレンススズカに騎乗していた武豊騎手はあの天皇賞の第4コーナー以降、全くツキを失ってしまったようだ。天皇賞の翌週のレースで他馬の進路を妨害して降着、3週間の騎乗停止となり、秋の最重要レースのジャパンカップで大本命馬エアグルーヴに騎乗できなくなってしまった。おまけに菊花賞でも一番人気で敗北(これは勝ち馬が強すぎたが)。今年彼は日本ダービーを初制覇、海外G1レースでの日本調教馬初勝利も成し遂げ、さらには年間重賞最多勝記録も塗り替え、秋のG1緒戦の秋華賞も制覇した矢先のアクシデントの連続である。全てがうまく回っている時に限って落とし穴があるというか、まったく勝負事にはうつろいやすい「流れ」だの「風」だのと言われるものが存在するのだなあと思う。誰もが第一人者と認める天才ジョッキーでさえ、何の前触れもなくある時を境に突然ツキを失ってしまうのだから、恐ろしい。

 そういえば近年に「ツキの風」の存在をもっとも痛感させられたのは、去年のサッカーW杯アジア予選での、アウェイのウズベキスタン戦だった。あの時日本はホームでの韓国戦に破れ、さらにカザフスタンとも引き分けて監督も代わり、もう一敗もできぬどん底の状況だった。だが、後半40分を過ぎて日本0−1ウズベク。当時も今も日本代表は得点力不足に悩んでおり、日本でTVを見ていた人のほとんどが「もう駄目だ」と観念したのではないだろうか(僕も半分あきらめた)。しかし、後半44分、奇跡的なゴールが生まれる。井原が自陣から蹴り込みゴール前でロペスが競り落とした何でもないボールを、ウズベクのキーパーが後逸してしまったのだ。いくら攻めてもこじ開けられなかったゴールの扉が、単純なプレーの中の偶然であっという間に開いてしまった。なんという幸運。結局この試合は引き分けに終わり日本は勝ち点的に非常に苦しくなったのだが、僕はなんだかとてもハイになり、叫び声をあげながら家の中を走り回ったのを覚えている。予選突破などととても確信できる状況じゃなかったが、にも関わらず、思いもよらぬ幸運なゴールが妙に大きな喜びをもたらしてくれた。今にして思えば、あの時に日本サッカーのツキの風向きが変わったのだろう。その後日本はもたつきながらも無敗で予選を戦い抜き、本大会のあのフィーバーが起こったのは皆さんもご存じの通り。

 ホントに、ツキだの流れだのってのは、いつどうなるか誰にもわからない。「明日は明日の風が吹く」。そんな気楽な心構えでいるのが一番いいのかもしれない。きっとまたいい風も吹く。今回はどん底に突き落とされてしまった武騎手だが、彼ほどの男なら気を取りなおしてまた風向きが変わったときに確実にそれをつかみ、より一層大活躍するに違いない。それを今から楽しみにしたい。

 

ショートカット113号掲載(1998年12月1日)

 

 

(注)その後の武豊について心配など無用だったのは、言うまでもない。


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