鈍感さは罪


 さる7月26日、森首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の三つの分科会が報告書を提出。特に目立ったのは「日本人としての豊かな人間性の育成を議論する」第一分科会で、教育基本法を中心とする戦後教育を批判するとともに、道徳教育の重要性を説き、小学校の「道徳」の延長として中学高校での「人間科」「人生科」の設置を求めた。また、小中学校で毎年二週間、高校で一ヶ月の「奉仕活動」を義務づけることを提言したという。

 つっこみどころはいくらでもあるこの報告書だが、まあ一言で言えば馬鹿じゃないだろうか、といったところか。戦後教育批判・道徳原理主義というのは、それを主張せねば生きていけない弱い人がたくさんいるからまだ許せるとして、その方法論自体もうちょっとまともなものを考えつかないものか。「人間科」「人生科」って、いったい誰が教師となるの?「良き人間」「まともな人生」というのを生徒自身の価値観にしたがって考えさせるならまだしも、どーせステレオタイプなモデルを持ち出して「清く正しく生きろ」とか何とか言うのだろうに、それほど立派な人間がどれだけ世の中にいるというのか。むしろ、官僚だの大企業役員だのという社会的に「立派」とされてきた「大人」が実はどうしようもなく腐敗していた、あるいは普通の人々と同様に弱い人間だったことが明らかになったのがここ数年の流れだろう。いくらほっかむりして偉そうに振る舞おうとしても、子供・少年少女たちはちゃーんと見透かしてるよ。

 「奉仕活動」ってのも短絡的と言おうか何と言おうか…。まあ「ボランティア」と言い換えようが何だろうが同じで、最も大事と主張される思いやりや公共性というのは、こういった押しつけがましい「奉仕活動」とは全く異なるものだ。さらに言うと、ここでジジイどもの言う「奉仕活動」と本来的な奉仕活動も、全く方向が違っているのは言うまでもない。だって誰に言われるでもなく自発的に人のことを思いやり、人のためになるように行動するのが、思いやりと公共性に基づいた奉仕活動ってもんでしょう。人に言われてしぶしぶやったからって、何になるというのだろう。むしろ、「形さえこなしておけば良い」と思うようになり、他人への想像力はかえって減退してしまうのではないか。命令されたこと以上には何もしなくなってしまうのではないか。ちょうど電車のシルバーシートや受験戦争後の大学生を巡る状況と同じように。だいたい、未成年だけがノーモラルであるかのように決めつけて未成年だけに義務を課すのが気にくわない。いかがわしい吊り広告で目を引くオヤジ新聞・週刊誌や金融機関のモラルハザード状況、あるいはタバコをポイ捨てするオヤジどもの姿を思い出していただきたい。今の世の中、若者と同様かそれ以上にモラルが低下しているのが成年以上、つまり「大人」の世界なのだ。百歩譲って奉仕活動に何らかの効果があるとしても、総理大臣を含めて全国民にそれを課さなければアンフェアに過ぎるだろう。ただでさえ「損をしている」感覚の今の若者たちは、このような馬鹿げた発想によってますます世の中への不信感を強めるだけだろう。

 とにかくこの報告書には、耐え難い鈍感さが溢れている。それは、17〜18歳にもなった生徒を「子供」と呼び、生徒の判断力を軽視して美的感覚に外れた柄の「標準服」を強制し、廊下の真ん中に線を引いて形だけの右側通行を強制する今の学校現場が抱える病と同種のものであろうと思う。そう、一見理解しがたい「子供」よりも何よりも、「大人」の鈍感さこそが問題なのだ。

 

2000年7月31日


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