夏休み、つらつら考えて


 僕は現在都内で学校関係の仕事をしているのだが、今回は他に余りネタもないので、最近学校や教育に関連してつらつらと考えたことを書いてみよう。

 

 その1。今年も8月には、原爆記念日に人が寝転んだり終戦記念の式典で君が代が斉唱されたり「戦争体験を語り継ぐ老人と平和を誓う若者」のステレオタイプな光景が朝日新聞に載ったり格好つけたがりの農水大臣が靖国神社に参拝したりTVで田原総一郎と小林よしのりが「あなたは日本人としての誇りを持っていますか」などと内輪ノリの対談をしたりしていた。まあ冷静な議論を避けて自分達の好みの世界へ逃げ込んでいる人々を見るにつけ呆れて無視したくなるのも確かだが、一方でこの手のタカハトな人々の発言が気になる(というか気に障る)ことも確かだ。最近特に腹立たしいのは「戦後の民主主義教育が日本を駄目にした」というタカな人たちの発言だ。この手の論説は思考停止的平和主義や日教組的なものと本来的な意味での民主主義を混同している時点で既に精密さを欠くのだが、より致命的な欠点は日本にこれまで民主主義教育と呼べるものが殆ど無かった事実だろう。例えば僕は9年間の義務教育の中で民主的要素があった記憶はほとんど無く、覚えているのは国旗掲揚だったり君が代の「君」は「あなた」という意味ですよとホザいた教師だったりクサい話を並べた道徳の教科書だったり「戦争はいけない」と書くだけでその根拠はこれっぽっちも示さない教科書だったり髪は伸ばしちゃいけません廊下は右側を歩きなさいシャツは必ず白にしましょうなんていう個性剥奪的校則だったりする。これらのどこに民主主義があるというのだ。デモクラシーの基本は「自分(達)の頭で考え、自分(達)で決める」ことだろう。タカなことであれハトなことであれ「ものを知らない」子供に「教え込む」日本流戦後教育は民主主義とは対極のものだ。その戦後教育を持ち出して「行きすぎた自由と民主主義は個人の責任感の低下をもたらす」などと言う人間の頭の中はどうなっているのか。崇高なものに皆ですがろうとするタカな皆さんこそ個人としての責任回避ではないのか。

 その2。この夏、都立城東高校の甲子園出場が、特に東京の下町では結構な話題になった。東京都の教育庁でも大騒ぎだったようだ。都立高校というだけで騒がれること自体に違和感を感じないわけではないが(私立の選手達も全く同様に一生懸命頑張ったろうに)、まあ都立高の置かれた環境を考えれば快挙と言えるのだろう。僕が気に入らなかったのは、甲子園での城東の戦いぶりのマスコミでの取り上げられ方だ。高校野球全般にも言えることだが、全てが美談として批評の対象外となってしまった。城東×智弁和歌山戦の9回、3点差で1アウト1・3塁の場面で城東はたてつづけに今季初出場の選手を代打に送り、あっさり敗れた。「最後の夏だから3年生を試合に出してやりたい」という意味なのだろうが、まだ勝つ可能性の十分にある場面でそれをやることは試合放棄同然、スポーツマンシップにもとる行為だと僕は思う。9回になるまでは送りバントを極力避けるなど高校野球のお約束から外れた戦いを展開していたこともあり、とても残念だった(ま、本人達の勝手と言われればそれまでだが)。しかし、マスコミは一様に「城東惜敗」「よくやった」と評していたようだ。9回の代打についてふれた記事は殆ど見られなかった。これも思考停止の一例か。

 その3。最近では単位制や3部制など様々なタイプの高校が各地でできているが、そういった新しい高校の募集パンフ等を見ると、「はじめよう、自分探しの旅」(某都立高校の学校紹介パンフ)などという感じで「自分探し」をうたっていることが多い。何も最近始まったことではないが、どうもこの「自分探し」という言葉が安易に、都合の良いように使われすぎているような気がするのだ。「自分探し」という言葉を素直に読めば「本当の自分がどこかにあり、それを探す作業」ということになるのだろうが、それは逆に言えば、「自分探し」している人にとっては「今の自分は本当の自分ではない」ということになるだろう。それって何か言い訳じみているというか逃避的というかそんな感じがするのは僕だけだろうか。無論本人の意思とは関係なく不利・不運な状況・環境に置かれる部分はあるにしても、人間誰もが少なくとも部分的には自分で考え、判断し、行動して現在の自分を選び取っているのではないだろうか。「自分探し」とは、探す側にとっては「本当の自分」という幻想により自分の道を選択する責任を回避する、探させる側(例えば学校)にとっては「本当のあなた」という幻想により恣意的な人間像を押し付ける、まことに都合の良い道具となっているように思えてならない。「本当の自分」などどこにもない、人ができるとすれば「自分探し」ではなく「自分づくり」もしくは「自分選び」だ(もちろんそこで「駄目な人」を選んでもそれはそれで構わない)。そう思うのは、僕だけだろうか。

 

ショートカット120号掲載(1999年9月15日)


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