大統領と総理大臣
皆さんは、『BART』1/1・12号で『日本国大統領・桜木健一郎』とかいうマンガが連載を開始したのをご存じだろうか。「全サラリーマン必読」だの「究極のポリティカル・サスペンス・コミック」だのと大層なコピーの付いたこのマンガの出だしはこうだ。西暦20XX年、日本において初の首相公選制が実施されようとしており、スタンフォード大出身の俊英桜木健一郎の当選が確実視されていた。ちょうどその頃、朝鮮半島では北朝鮮軍が38度線を越えて侵攻、太平洋艦隊を派遣したアメリカに対して中国は台湾侵攻を決意。東アジアは大混乱に陥ろうとしていた。はたして、日本国「初代大統領」に就任した桜木はどうやってこの危機を乗り切るのだろうか──。このマンガは始まったばかりであり、今後の展開はわからないが、おそらく主人公の桜木とやらが優れたリーダーシップで難問をバッタバッタと片付けて行くのだろう。本宮ひろ志や弘兼憲史あたりが好きそうな筋立てではある。落合信彦なんかも気に入りそうだ(笑)。
政治や経済が行き詰まった時、強力なリーダーシップの発揮による打開を求める声が出てくるのは洋の東西を問わず同じだが、日本の場合それは首相公選制(を含む一種の大統領制的制度)導入論の形をとることが多い。まあ、日本に入ってくる情報の量を考えたらアメリカの制度の影響を受けるのは当然かも知れない。しかし、僕はこの手の改革への「リーダーシップ」の効用を強調する意見には違和感を覚えてしまう。それは、そういう意見の多くが、大統領制や議院内閣制といった政治制度への誤解に基づいていると思うからだ。
現代政治の典型的な2つの政治制度である大統領制と議院内閣制を比較してみよう。大統領制(特にモデルとしてのアメリカ合衆国)では、定期選挙の原則・大選挙区の首班直接選挙のせいで選挙の予測・操作が困難であり、政権交代が生じやすいという利点がある。しかしその一方で政策の継続性は保証されがたく、また民主制の担保として厳格な三権分立が要求されるため、しばしば政治が停滞してしまうという欠点がある。1930年代アメリカでF・ルーズベルトのニューディール政策は議会や最高裁の反発により十分な成果を収められなかったし、60年代にはJ・Fケネディの進歩的な法案は度々議会によって葬られた。大統領=フリーハンドの権力者という発想は幻想に過ぎないか、さもなくばアナクロな権威主義だ。
一方の議院内閣制はどうか。議院内閣制では恣意的な解散・小さな選挙区の利用によって長期政権化しやすく、また議会の多数党が内閣を構成し議会と内閣の協働が前提とされているため、野党は無力であり、大きな改革や危機時のリーダーシップ発揮もしやすいはずである。たとえばイギリスのサッチャー改革などは議院内閣制だからこそ可能だったと言える。現在の日本政治の停滞は、自分たちが一致して推した首相とその改革案に今になって反発しだした自民党のおかしな態度(とそんな党を与党にする有権者)に原因がある。決して制度的な問題で改革が進展しない訳ではないのだ。むしろ日本政治の問題は政治文化の問題であって、特効薬などはないという方が正しいだろう。そういえば、ある自民党の議員が「日本は議院内閣制をとっているからより民主的」などと言っていたが、本音だとすればなんと幼稚な理解なのだろう。戦前のファシズムを見れば分かるように、20世紀の多くの独裁は議院内閣制の姿を借りて個人より「党」を強調する事により形成されたのだ。
僕自身は、首相公選制導入論者だ。理由は、宮城知事選を見れば分かるように、直接投票の首班公選制によって政治の「血のめぐりの悪さ」が改善されると思うからだ。だけど、停滞を倦んでスーパーマン願望をあらわにする人達には同調できない。上記の理由で筋違いだとも思うし、大体そういう人達は他者に期待するばかりでズルいと思うのだ。そんなにカリスマ・スーパーマンが欲しい人は小林よしのりにでもぶらさがっていればいい(笑)。
ショートカット98号掲載(1997年12月15日)
(注)このコラムを書いた頃、橋本龍太郎首相の改革が行き詰まって強力リーダー待望の雰囲気が出てきていた。今(2000年5月)現在、「石原新党」を望むオヤジ新聞・週刊誌の論調はファシズムへの近道にいると思う。